受験勉強の思い出 1 


知能検査と浅間温泉

   大学受験勉強を語る前に昭和24年(1949年頃)の学校の環境を説明しないと今の環境からは理解出来ない事が多いと思う。先ず昭和24年に新制大学が発足した。それまで我々旧制中学校の生徒の憧れであった旧制高校・・一高、四高,八高等々・・が全て無くなってしまい大いに落胆した。弊衣破帽、朴歯の下駄、煮しめた手拭そして寮歌の合唱、そんな外観に限りなく憧れていたのが、制度改革により消え去ってしまったのである。

新しく発足した新制大学は旧帝国大学系が受験の一期校、諸々の学校が合併されて出来た大学が二期校とはっきり区分され、昭和23年までは進学適性検査が実施されていたが、24年から知能検査に名称変更されて24年12月に全国一斉に実施された。飯田高校やその周辺の生徒はこの検査を受ける為に 「松本」まで行かねばならず 時間的に前夜から宿泊しての受験となった。 何故松本だったのかいまだもってその理由はわからないが、ひどかったのは何故か宿泊場所が「浅間温泉」であった。バブルの頃とは違って乱痴気騒ぎは無かったが、それでも温泉街であるから通常の旅館とは雰囲気が違う、まして伊那谷の何も知らない中学生が泊まるのだからその結果は推して知るべしだ。試験終了後松本から中央線で塩尻まで来てそこで又乗り換えて辰野で下車、飯田線に乗り換えて飯田行きの終電、飯田駅には多分11時半過ぎていただろう、勿論バスなんてとっくに終わっているしタクシーなんてものはありゃしなかった。 飯田駅から8キロの田舎道を只黙々と歩くのみ。 街路灯があるわけがないし、街道沿いの家ももう12月の真夜中はどこもかも真っ暗、寒くて震えながら 松川ー天竜川沿いの田舎道を歩いた事を覚えている。当時は これがあったり前と思っていたから やれたのだろう。今なら不平不満が先で到底出来なかったと思う。

盲腸炎と屁

   新制高校の三年生ともなれば もう一学期から受験勉強に没頭していたと書きたいのだが、実際は どうものんびりとやっていたらしい。受験勉強と言えるかどうかわからないが、往復四時間の通学時間を毎日英単語の暗記に使っていた事は事実だ。そろそろエンジン始動と 考えていた矢先の6月末突然脇腹に激痛、喬木村の医院で見てもらって、痛み止めの注射をして貰ったが全然効き目無し、そこで先生いわく「これは急性盲腸炎でありますな」と訳分からないうちに飯田橋のふもとの病院に運ばれて、即手術となってしまった。池田小学校時代にも盲腸炎もどき?を経験しており、どうもこの病名に縁があるらしい。

先生は元軍医さんで戦場で多くの手術を手がけてきた方と聞いていたがその手術方法には魂消た! 先ず背中のどこかに「局部麻酔」をするだけ。痛みはもちろん感じないが頭も目も耳も手足の感覚もはっきりしている。 だから今下腹を押さえて何かやってるな、先生が看護婦さんに専門用語で何か指示しているなって事は全部聞こえている、 その内に手術は終了したが先生がいきなり「オイ!これを見ろ!」と言って顔に掛けてあったタオルを取り、目の前にぶらさげられたのは、なんとたった今手術で切り取ったばかりの ほかほかの「盲腸」そのものであった!記憶ではどす黒い小指くらいの大きさだった。 「もう少し遅かったらこれが破裂して腹膜炎でお前は死んでたぞ」 と脅かされて返す言葉も無し・・・。

「あと2−3時間で麻酔が醒めて痛くなるがあばれると縫った糸が切れるからじっとせい」といわれて 大部屋に寝かされた。今の病院とは違ってベッドなんか無い、畳の部屋で 数人の患者と一緒、 麻酔が効いているうちはまだ おとなしく寝ていたが、そのうち麻酔が醒めかけると その痛みは地獄の劫火に焼かれるとはこの事か・・普通なら七転八倒する所だが母親と叔父が二人掛かりで 私を押さえつけて動けぬ様にした。覚えているのは 「う〜〜ん、イテエエ〜〜」と 口走ると 同室の患者が「頑張れ もう少しで痛みも減るぞ、 頑張れ〜〜」と激励してくれた事だ。なにしろ畳の部屋で 仕切りも何も無しで布団の上に寝かされているのだから同室の患者は 私がどんな病気でどんな手術をして、それがどんな経過を辿るか 百も承知だったんだ。だから激励されると なんだか「イテエー」と唸るのが申し訳なく感じて「う〜〜ん、う〜〜ん」と 布団の中で唸ってるだけその内に夜が明けるに従ってウソの様に痛みが引いていった。そして翌日の回診の時に先生が開口一番「オイ 屁は出たか?」「へ〜〜?」「出なきゃ大変だ、出たらすぐ知らせろ」  「そりゃ大変だ どうか 早く屁が出ますように」  後にも先にも「屁が出ますように」と祈ったのは初めてだ。たしか午前中に「屁」がでて皆な喜んでくれた。いまだもって屁」をこいて喜ばれたのはこの時だけだ。

今の盲腸の手術なら 即歩いて退院準備だが昭和24年 いまから55年も前の手術は退院まで一週間かかって それから自宅で安静 風呂は駄目!7月の半ば頃 やっと許可が出て風呂に入らせて貰ったが 後で母が言うには風呂の湯が「垢」で汚れて後が大変だったそうだ。とにかく一ヶ月は安静を守れといわれて 殆ど天井とにらめっこしていた。勿論その間学校は行く事が出来なかったし、期末試験も受けれなかった。受験の時に学校から出す内申書、所謂成績表に付いては後で聞いたら担任の市瀬先生{ウラサ}が『ま、こいつはこんなもんだろうと 適当に点けておいたぞ』と教えてくれた。二学期の始まりにウラサからおまえは学年で60番くらいだなあと聞いて『ま、こんなもんか。』と妙に納得した事を覚えている。当時は先生も生徒も本当にこんな風だった。だから七月は全く勉強出来ず八月も名古屋の叔父の所に遊びに行ったりして 受験勉強だあ〜〜と おっぱじめたのは 九月に入ってからだった。


                                          平成16年2月4日

#青字に下線が引いてある個所にはLINKが貼ってあります。


Home