ADHDについて   詳細トップ

                                       児童健全育成指導士 田中 純一

  ADHDを検索してみるとウィキペディアでは
  
注意欠陥・多動性障害(ちゅういけっかん・たどうせいしょうがい、英語: AD/HD: Attention Deficit / Hyperactivity Disorder)は多動性、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害もしくは行動障害

 上記のように記されている。語源的に考えるとAttentionは注意で、Deficitは欠損・Hyperactivityは注意散漫・Disorderは障害となる。
 
このことから注意欠陥多動性障害と一般的に日本語に訳されている。ところが現場でADHDなどと診断されている多くの子ども達が注意欠陥ではないように私は感じている。
 もし注意が欠陥したり欠損しているのであるならば昔でいう魯鈍ということになるであろう。ところが多くの子どもは魯鈍ではなくて刺激に反応しやすくなっているのである。つまり折り紙などをしていてもちょっとサイレンの音が遠くに聞えただけでそれに反応して行動をしてしまうのである。
「今は折り紙を折っているときでしょ。ちゃんとやりましょう。」などと声をかけても「だってサイレンの音がするよ」と答えるのである。一般的に遠いサイレンの音に私や他の子どもは反応しないで折り紙に集中しているが、ADHD傾向の子どもは折り紙に集中ができないのである。これは集中する力が不足しているのではなくて、他の刺激に反応してしまうことに要因があると私は感じている。
 同じようにカプラをやっていた時のことである。カプラを使って大きなかまくらを作ろうとしていた。そのプロセスでカプラの一片が中に落下した。普通はこの落ちたカプラはかまわないで積み上げていくのだが、ADHD傾向の子どもはこれが許せない。だから中のカプラを拾おうとする。すると全体の積み上げていたものを崩してしまう。ドミノ倒しも一緒である。せっかくある程度までドミノを作ったのに多少曲がったドミノが許せなくて修正しようとして結果的にドミノ全体を崩してしまう。自分のドミノを壊したときは自暴自棄となる。また他人の曲がったドミノに手を出した場合は他人とトラブルとなる。従ってADHD傾向の子どもは自尊心が低くなり、または他人とのトラブルが多発することになる。

 私は注意欠陥との表現がそもそも間違っていると感じている。注意欠陥ではなくて注意過敏 attention hypersensitivityではなかろうかと思うのである。つまり注意が欠陥しているので集中力がないのではなくて注意過敏なので他の刺激に反応しすぎて集中できないのである。その結果としていろいろな刺激に反応して動き回るので多動性障害となる。注意欠陥多動性障害が一つの症候群として出てくるのはそうした関連性(注意過敏に反応して多動となる)があると私は考える。ですから私は注意欠陥多動症候群ADHDとの表現をやめて注意過敏多動性症候群AHHDとするべきではないかと思う。

 このように考えてみると実際の指導においては「よく考えて行動しよう」との提案はマイナスとなるであろう。逆に考えないで多数派と同じ行動をすることを指導するべきではないだろうか。以下は考えないで行動することの提案である。

 ADHD等注意欠陥や多動な子どもを見ていると圧倒的に男の子の確率が高い。男の子と女の子の違いを観察していると女の子は行動をする前に必ず他人の行動を見てから活動することが多い。これに対して男の子は先手必勝とばかりとにかく行動が先に来る。
 学校から帰って来る時に犬の子のように一番を争うのは男の子だし、問題が出される前に「ハイハイ」と手を上げて「わかりません」と答えるのも男の子が多い。
 女の子は周りの様子を観察してから行動するという社会的参照の能力に優れている。女の子が社会的参照能力に優れているのは哺乳動物として未熟児のようなあかちゃんとのコミュニケーションを図るために脳にある程度本能的にインプットされているものがあるのではないかと私は仮説を立てている。
 哺乳動物でありながら乳を与えることのできない男は(オスは)せめて先んじて餌をとるために社会的参照の能力よりは活動的な能力を身につけたのではなかろうかとも私は思う。
 多動や注意が集中できない(注意に過敏)ことは社会的参照の能力が足りない男の子に多くなるであろう。だとするならば、社会的参照の能力を培うことが必要となるであろう。そのためにはまずは下手な考えをしないでとにかく周りの人がどのように行動しているかを見てその真似をすることが大切になるであろう。下手なことを考えたり、なぜかを思う前に大多数の人の行動を見てそれと同じことをする能力を培うことである。これはある意味では無意識で真似をすることであり、意識的に考えることではないのである。そこで私は考えないで行動することを提案している。
 考えないで行動するというのはエポケーするとの意味でもある。ある行動が正しいか間違っているかを議論するときりがなくなることがある。ちょうどイスラエルとパレスチナの戦争のようになってします。とりあえず停戦にもっていくというのも一つのエポケーの手法である。また韓国では日本の犬食いのような食べ方が文化的に正しいらしい。韓国で大きなおわんを手に持って食べるわけにはいかない。ちょっとおかしいと思っても郷に入ったら郷に従えというのも一つの手法である。とくに文化的な点においてはそれぞれの文化を認めるためには議論しあうことではないであろう。
 エポケーして取り合えず多数派にしたがって行動することは必要である。その代わりに時間的に余裕がある時に様々な試行錯誤の取り組みをしておいてきちんと主張するときは主張することも大切であろう。ところがそうしたいろいろな経験や試行錯誤がないままに言葉だけが独り歩きしているのが今の時代ではなかろうかと私は思う。
 考えないで行動することがまずできるようになることが必要である。


 注意過敏の子どもに「よく考えてから行動しましょう」とか「やってよいことか悪いことかを考えましょう」などといった指導はあまり効果的でないと私は思う。その代わりに「サイレンの音がしても周りの他の子どもが何も行動しなかったら多数派に従ってその真似をしていよう」「ちょっとした他人の非難めいた言葉にもそんなに反応しないで受け流そう」「多少の間違いや失敗は気にしないようにしよう」字や絵を描き間違えてもそのままにしておこう」などの提案をすることが必要であると私は考える。
 第2に遊びの内容として注意過敏ではやれないような遊びを提供することである。水泳・ローラースケート・けん玉・一輪車などの遊びはその遊びの最中に他の刺激に過敏に反応することが出来にくい遊びである。注意過敏ではなくて他の刺激に鈍感に反応することで集中力を養う遊びを幅広く提供していくことが大切である。
 「学者」の皆様は一人の子どもをカウンセリング的に相手にすることが多い。そうした環境下では刺激も極力セーブされているであろう。ところが現場では多くの外的及び内的な刺激がたくさんある。子どもの人数が多くなればなおさら刺激はたくさんになる。こうしたたくさんの刺激に対して鈍感になるように仕向けていくことが私は必要と思う。

 
 多動性障害について
 注意過敏による多動性障害とはべつにたんなる多動性障害もあるように私は感じている。もちろん圧倒的に男の子どもに多い。高いところがあれば登りたがり、棒があったら振り回し、石があったら投げ、カーテンにすがり、じっとしていられないで走り回る。グランドにいくとすぐに穴を掘り始めるなどの子ども達である。私はこれは子どもが考えてやっているわけではなくて無意識で本能的な行動なのではないかと仮説を立てている。ネズミ・サルそして人間へと進化してきたホモサピエンスは本能的に走り回り、石を投げ、カーテンにすがり、穴を掘り、高いところに登りたがる存在である。ところが昨今の現代社会は文明社会・車社会、人工物社会となった。そのため、昔のように川で石きりをしたり、木登りをしたり、田んぼを掘ってドジョウをとったり、野山を駆け回ることができなくなった。その反動として多動性症候群が出てきたように思う。多動を発揮する場所が極端に少なくなってきたのである。だとするならば大人は身近なところで子どもの遊び場環境作りをすることが必要であろう。周囲の公園・空き地・学校のグランドを芝生にしたり、危険な木を剪定したり、花を植えたりすることが必要であろう。このことで多動を発散できる場所を提供することが大切であると私は考え実践している。
 多動性障害を持つ子どもに危険なことをしたら、障害の一つの考え叱らないでよく話してあげることが必要である。などとの主張がある。そんな甘え考えで上手くいかないと私は思う。昔は自然がいっぱいあって、失敗しても許容力もあったし、同時に厳しさもあった。現代社会では機械文明を主体としているからそうした許容力がないのである。ちょっとした行動が大きな事故につながる可能性が高い。例えば車道に飛び出せば車に轢かれて死亡する確率が高いのである。だからダメなものはダメとしっかりと行動パターン的に躾けることが必要となる。「赤信号は出るな。」「なんで?」「車に轢かれるでしょ。」「ぼくは大丈夫」「大丈夫でない」「自動車が来なければ渡れる」などといったエンドレスな論議は不毛である。単純に「ダメなものはダメ」を通すことが必要である。多動な子どもは次々といろいろなことに手を出す。だから一つのことに気がいっているわけではない。だから体育館で食事中に走り回ったら「ダメ」、のぼり綱をやったら「ダメ」、ボール投げをしたら「ダメ」と言ってやり、折り紙を始めたら「偉いね」と褒めてあげればよいだけなのだ。
 単純に多動の子どもは集中力が持続しない。これは注意過敏による多動性障害とは異なる場合もある。注意過敏を伴わない単純に多動性障害の場合はスモールステップの手法を活用して、粘り強く何回も繰り返してすこしづつスキルアップをすることが必要であろう。ダメなものはダメだけれどできなくても大丈夫とのサインを常に送ることが必要と思う。カプラや土粘土遊びのように壊してはまた作り、作っては壊すことのできる遊びが効果的であると私は思う。


 子どもは千差万別であるから、いつも個別的な問題を抱えている。私自身の提案は私の子ども達とのふれあいから感じたことであって、自分の手法が正しいと思っているわけではない。一つの手法の提案であり、他の手法で良いものがあったら常に学びたいと考えている。こんな手法もあるとの提案である。そして個別的存在である子どもから学ぶためには子どもの視線の下側に立って子どもを理解することも大切であると思う。理解するはunderstand(下側に立つ)であるこを常に心がけたいと思う。


 教育の目的と考えないで行動すること
 教育の目的は教育基本法において下記のように記されている。

教育の目的

第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 教育の目的である上記のことを実現するには学問を身に付けることが必要になる。身に付けるとはどういうことであろうか。大辞林によれば知識・習慣・技術などを自分のものとする。体得する。習得する。「一芸を―・ける」とある。つまりたんに頭で理解するのではなくて自分自身の身体にオートマチックに覚えこませることである。本来的な学問とか学習とは私は実は頭をできるだけ使わないで考えないで色々なことができるようになることであると思う。

 例えば足し算を考えてみよう。8+7は(8+2)+(7−5)=10+5=15との思考過程が内在している。これを学習において繰り返すことによってオートマチックに8+7=15の思考回路が完成するわけで、8+7=15を考えているわけではない。学習とは考えないでオートマチックに仕事ができるようになることであり、このことにより、人間の脳が本当に必要なところに集中力・専心することができるようにしているのである。インド人にID産業や世界の経済のトップが多いと言われているのはパソコンが普及しているのではなくて、算数教育が進んでいることらしい。インドでは19×19までを暗記しているという。13×13の場合に(13+3)×10+3×3=169といった思考回路で計算をする。その繰り返しの中でオートマチックに13×13=169と考えなくてもわかってくる。その結果169という数の性質が13という素数の二乗であることも理解される。
 学習とは考えないでオートマチックに行動できるようにするためのものである別の例を挙げてみよう。自動車学校で自動車教習を受講する。赤信号では停まるとか黄色点滅は徐行とかバックの仕方・車庫入れの仕方・右折の仕方などを学ぶわけである。この学びの結果、私たちはほぼ無意識で赤信号になったらブレーキを踏み、黄色では徐行することを身に付ける。信号が赤になった。ブレーキを踏むように脳に命令させる。脳の命令で足がブレーキを適度の力で踏むといったように考えてやっているわけではない。

 このように学習とか教育はそれを経験することで不必要に考えないで行動することを学習するためのものと定義することができるのではないだろうか。ところが今の教育や児童福祉や子育てのの現場においてはあまりにも「しっかりと考えなさい」との発声が多すぎるのである。時として「何をしているの。よく考えなさい」との声かけ自体がオートマチックに無意識に出されているように思われるこの頃である。


 社会的参照の能力と考えないで行動すること
 社会的参照の能力は4ヶ月位のあかちゃんから出てくる能力で、あかちゃんがどのように行動したら良いかわからなくなった時にアタッチメント(愛着)の対象者(通常母親)の行動を見て判断するとの能力である。通常男の子よりも女の子どもがこの能力に高いと私は思う。そこで女の人は何か行動する場合に周りの様子を見てから自分の行動を決定することが多い。これに対して男は自分なりに判断して行動することが女の人よりも多い。社会的参照の能力の高い人はこの周りの状況に合わせて行動することを自分は考えて行動していると思っている。ところがこの社会的参照の能力はオートマチックに発揮されていることが多くて、考えて行動しているわけではない。場の空気をオートマチックに読んでオートマチックに行動しているのである。場の空気をオートマチックに読んで行動する人が場の空気を読めないで行動する人に対して「考えて行動せよ」と教えてもストレスになるだけである。逆に考えないで他の人と同様の真似をすることが大切と行動療法的に身に付けさせることが必要となる。
 社会的参照能力が高いことは考えないで周りの状況に合わせて行動できる能力であると思うべきではないか。
 具体的な手法でやってみよう。漢字書き取りをしているときに遠くでサイレンの音が聞える。注意過敏の子どもは「先生、サイレンの音が聞えるよ」「今は漢字書き取りだからサイレンの音は気にしないでやりましょう」「でも事故かもしれない」「事故なら連絡がきます」「来ないかもしれない」こんな問答の中でクラスはざわざわになってしまう。注意過敏の子どもに「サイレン等の気になることが起きても周りの大多数の子どもの様子を見て、みんなが動かなかったらあなたも動いたり、発言したりしないこと」と教えておく。そして「先生。サイレン」と言いそうになったら「周りを見てごらん」で終わりにするのです。そして考えないで大多数と同じ行動をすることを習慣付けること=身に付けることが必要となると私は思います。(それではサイレン等の異常事態には誰が対応するのか。それは安全管理・環境整備担当の職員そのものである。職員はその意味で注意過敏でなくてはいけないと私は思います。)