いわゆるいじめ問題について 詳細トップ
児童健全育成指導士 田中 純一
いわゆる「いじめ問題」についての私の考え方をまとめてみた。掲示板やともやん日記に書いたものの羅列である。いじめから始まっていじめをきちんと犯罪及び犯罪的行為と区別することの必要性を感じて書いていることが自分なりに思い出された。
体罰・いじめエトセトラ
12月27日ともやん日記
体罰やいじめについていくつかの提案をしている。まず基本的に考えなければいけないことは体罰・いじめ共に刑法上の概念ではないことを理解することだ。現実の裁判と言うことになれば体罰や・いじめと言うことで裁かれることはないであろう。刑法上の問題であれば傷害・傷害致死罪・暴行・過失致死・窃盗・器物破損・名誉毀損・侮辱などの罪及び傷害や傷害致死罪では共同正犯か現場助勢の罪となる。
民法上であればこうした刑法上の罪もしくは不法行為等により不当な不利益を受けたとのことで過失を問われることになるであろう。
第1に体罰・いじめと言った刑法上にはないあいまいな言葉を使うと見えることが見えなくなるのが問題であると私は思うのである。宿題をやってこなかったと言って子どもを殴って鼓膜を破るとか、柔道の練習にかこつけて1人を数人で次々と投げ飛ばし死に至らしめるとの行為は体罰ではない。傷害罪・傷害致死罪である。また教員による「お葬式ごっこ」は侮辱罪・名誉毀損罪でありいじめの範疇ではない。体罰・いじめとの言い方をすると本来的な刑法上の犯罪に値することが教育上の体罰だとか人間関係の中のいざこざの範疇であると物事を見えなくしてしまうのである。
第2に体罰・いじめとの言い方はヒステリックな一部の子どもや親を擁護し、逆に健常な人を叩く材料となって、子ども達の人権を守ることが出来ない結果を生んでいる。子ども達の中には一部暴力的で他人に危害を加えても平気な子どもがいる。こうした子ども達によって暴行・傷害・侮辱などの被害を受けている子どもが存在する。刑法上では当然正当防衛権が存在する。怪我をさせられないために実力行使が必要である。とくに弱者である子どもの監督責任者である教員や保育士・児童館職員は不法な暴力を振るう子どもから弱い子どもを守る義務がある。ところが、弱い子どもの暴力を阻止しようと実力行使をすると情報オタクの子どもは「おい先こう。叩けるか。お前達は体罰が禁止されているのだぞ。教育委員会に言って首にさせるぞ」等の言動をしている。結果として不当な暴力がのさばり、学校崩壊や暴行によって同級生を死に至らしめ事態を招いている。弱者を守るための正当防衛権の行使は体罰ではなくて監督義務者の当然の義務なのである。こうした義務すらを否定するような体罰禁止論者は悪質である。
いじめも一緒である。人間関係にはいざこざがある。「あんたなんかすぐに勝手に自己中心でルール破りするから遊び仲間に入れてやらない」などと子どもが言われると一部ヒステリックな親がすぐにスワいじめと訴え始める。その前に鬼ごっこをしていて、つかまりそうになると「タイム」「タイム」を連発し、自分だけは鬼になりたくないと勝手にやっている自分の子どもをきちんと現認する作業が親も職員もしていないことが多い。そしていじめいじめと騒ぐからやっやこしくなるのである。人間関係はいざこざがある。そのいざこざを一方的な犯罪的行為にならない範囲では許容していくことが必要である。いわゆる目を離さないで手を出さない・口を出さないで見守ることである。こうしたことがいじめ報道の結果できなくなり、いじめいじめと騒ぐ人の方が得をするかのような現象を生んでいる。
実力行使をめぐる二つの場合
第1に正当防衛権の行使の場合である。児童館職員や教職員はその保護する子どもの保護監督義務があるのだから、刑法第36条の定める自己又は他人(この場合自分を守れない子どものこと)の権利を守る義務があるのである。
第1(正当防衛)
第36条 急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
私は子ども達に常々言っている。「他人の基本的な権利を侵害する権利は誰も持っていない。もし侵害するようなら断固として実力行使をする」このことは神戸の事件から言い始め、池田市における学童の殺害事件でさらに大切なことと私にとって捉えられるようになった。他人の生命を傷つけたり、他人に危害を加えたりの刑法上の犯罪は絶対に実力で阻止しなければならない。もちろん時と場合で警察力の行使を仰ぐことも必要であるが、急迫の事態の想定を考えておくことは常に必要である。
正当防衛権としての実力行使の内容は過剰防衛にならない範囲において必要なものと考えるべきであろう。ナイフを振り回している場合と石を投げている場合では実力行使の内容は違ったものになるであろう。
躾の問題としての実力行使
正当防衛権の行使としての実力行使とは少し違った意味合いで躾の問題としての実力行使がある。法的には小学生からは自分の生命を自分で守る事理弁識能力があるとされている。しかしながら実際には男の子で小学校2年生後半までは事理弁識能力は確立されていないように私は感じている。小学校2年生後半までの男の子は廊下を走り回り、石があったら投げ、棒があったら振り回し、高いところには登るといった存在である。こうした子ども達には言葉による躾よりも身体による躾が必要なときがある。
石を投げることは他人に危害を及ぼすことを理解したうえでの行為ではなくて本能的な行為である。自然豊かな昔であったら石を投げてもそれほど問題はなかった。しかしながら現在ではそうした行為は危険である。従って石を投げている姿を見かけたら黙ってにこやかに近づいて行って、子どもの視線のさらに下になり、「石を投げたこの手悪い子。」とぱちんとやることは躾の中で必要なことである。そして「でもあなたはよい子」とケアをしてやればよいのである。
体罰の禁止なることが金科玉条のごとく言われ、小さいときからきちんとした躾がなされない子どもが実は思春期を過ぎてから大きな問題行動を起こしていることが多いのである。
同時に知的(情緒的)障害児の躾も同様である。障害児童の扱いにおいて危険なことをしても障害があるのだからと許したり、安易に妥協したりするケースが多い。しかしながら障害児童であっても体力は着実についていく。他人を押すなどの無邪気な行為も3歳くらいまではたいした怪我にはならない。しかし知的には3歳でも体力が12歳ならば大怪我といった事態になることもある。やはりやっていけないことをきちんとやっていけないと心身ともに躾けることも必要である。私は障害児に対しても危険な行為をした時は(愛情表現としてなのだろうが、思い切って私を叩くなど)ちゃんと叩き返して痛みを理解させてあげるようにしている。するとむやみに叩いてこないようになる。そして叩こうとするエネルギーをボール投げ・ランニング・ダンスなどへと発展させるようにしている。これは健常児でも障害児でも一緒で基本的なことではないかと感じている。
understandとロールプレー
undestand
時としての実力行使は必要であるが、常に自分が実力行使をする立場であることは錯覚をしてしまうものである。自分の立場を常に変えてみることが必要であると私は思う。その意味で自分を理解するうえからもunderstandすることは必要条件である。understandとは下側に立つということで同時に理解することである。大人はどうも子どもの上に立ちたがる。これは人間の本能であろう。だからこそ下側に立って見ることが必要である。子ども達が学校から帰ってきたときに私は膝立ちになって「お帰りなさい」と言うようにしている。すると子ども達の表情の中に上からではないものが見えてくる。また「ともやんが私のことを蹴った」などとの訴えにも子どもの視線の下側に立って「そうよね。あなたが悪い。あなたは可愛すぎるからともやんも叩くのだ。美しいとは罪ですね」などといってやれば満足してまた遊びだす。understandすることは基本である。
ロールプレー
ロールプレーは役割分担劇である。じゃんけん遊びなどでこれを使って遊んでいる。じゃんけんをして負けたら膝立ち・また負けたら座る・座った状態でまた負けたら「00さま参りました」などと深々と頭を下げる。教職員や児童館職員・保育士も「プライド」を捨てて一回子どもに深々と頭を下げてみよう。すると子どもの信頼を勝ち取ることが出来るように思います。でも危険な行為をしたときは断固たる姿勢をとれば本当に必要な権威も損なわれるわけではありません。
「ともやんが石を投げました。その石がレナちゃんに当たりました。レナちゃんは怪我をしました。さあともやんはどうなるでしょう」などの場面設定にも使えます。投げたともやん役を職員がやり、職員役を子どもにやらせたりします。職員役の子どもが職員の側までやってきて「ともやん。石を投げたこの手は悪い子ですね。(パチン)今度しないでね。レナちゃんに謝りましょう」などとやります。ともやん役の職員はレナちゃん役にしっかりと謝って見せます。こうした繰り返しのロールプレーを行えばずいぶんと子どもとの関係もよくなります。
understandとかロールプレーとかでしっかりと学んでくると危険な行為はずいぶんと少なくなります。しかしそうしたことを学ばないで自己中心でわがままのままに成長してきた子どもとの出会いも多いものです。そうしたときはしっかりと見守ることが大切と思います。事務室や教務室に閉じこもっていては現認できません。みんなで危険な行為がないようにしっかりと監視体制をきちんとすることも必要と思います。職員だけではなくてボランティアなどの応援も必要となります。それについてはまた。
12月10日ともやん日記に書いたもの
一般的ないじめという言い方は物事を悪化させてもよい方向に持っていくことがない。もういじめという言い方はやめるのがよい。というのが私の考えです。
ちょうど体罰の問題とか学校五日制という言い方と一緒で物事の本質を歪曲しているからです。体罰の禁止は学校内における不当な暴力や躾等をまとめて体罰と言い換えて基本的な躾を出来ないようにし、不当な暴力を振るう子どもを助長する結果となっています。学校週休二日制を子どものためのゆとりのための学校五日制と言い換えてゆとりを奪い取っています。
いじめという言い方は体罰の禁止・学校五日制という言い方で物事を見えなくしているのです。
まず子どもが自殺まで追い込まれるような行為は一般的ないじめといったものではなくて侮辱罪・暴行罪・傷害罪・名誉毀損罪・恐喝罪・窃盗罪などといった犯罪であり、一緒にそれをやっている人共同正犯もしくは現場助勢の罪に該当していることです。もちろん生徒だけではなくて葬式ごっこをやった教員も同様の罪である。(犯罪的な行為をやっている生徒の出席停止も当然のことで小学校中学校は犯罪少年を矯正する機関ではないのだから出席停止は教育の放棄などというのは間違いである。)
同時に人間である以上人間関係のいざこざや多少のいじめ関係はなくなることは絶対にないのです。ただそうしたいざこざを犯罪までに至らしめないようにきちんとサポートすることが大切なのです。
こうしたきちんとした観点に立たないで(私はこれが基本と考えているのですが)いわゆるいじめというとちょっとしたことで「これはいじめ」と保護者が大騒ぎをして、それを受けて子どもも大騒ぎとなります。いじめられっ子になれば有利と考え、いじめている側がいじめられていると主張することも出てきます。またきちんと事実関係を把握しないで保護者同士のケンカまでに発展し、結果として子ども同士の関係性が悪化することがある。
結論的に言えば、小学校低学年までの子ども同士の関係性が深まるように、多少のいざこざは目を離さないで手を出さないようにすることが大切である。小学校低学年までの子ども達の関係性は比較的に目に見えるところでやるものだから。またやった行為は叱っても「何を考えているの」などとは言わないようにしよう。多くの低学年の男の子は考えて行動しているわけではない。低学年の男の子の危険な行為や言動をきちんと対処すれば女の子は見て学習する。だから教員も保護者も頭で考えないで、クラス討論などしないで現場での子どもの様子をしっかりとundersatandすることが大切ではないかと私は思う。
小学校の高学年になると人間関係も複雑となり、大人の見えないところでいざこざは生じる。また体力もつき、知力もあるから、こうしたいざこざが犯罪的な行為までにエスカレートしないように大人はある程度心のアンテナを広げておく必要があるだろう。また恐喝・暴行・侮辱・詐欺・窃盗などの犯罪的な行為ができないようにハード面ソフト面の環境作り(ゴミのない環境・死角がない環境・見回りがきちんとされる・悪のたまり場を作らせない・警察との連携・児童相談所との連携などなど)に取り組む必要があると思う。
いじめ0をなどと言う言い方が出てきたことは危険である。いじめ0などありえないことだ。人間であるかぎりいじめはある。それを重篤なものにしないために何をするかが現実を生きているものが考えることであろう。いじめ0という言い方をする人は実はいじめの元凶になっているのかもしれないと私は思う。(仏陀は四苦八苦という言葉で人生の苦を表している。生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合せたものである。生きること年をとること病になること死ぬことそして愛するものと離れることについで、嫌な人と会わなければならない苦しみをあげている。七つ目八つ目は名誉欲や権力欲・物事に執着してしまうこととなっている。怨憎会苦は人生の永遠のテーマでもあるのだと私も思う。)
また子ども同士の群れ遊びを復活させるための現代的なスキルを我々自身が持つことも大切ではなかろうか。
12月24日ホームページ掲示板に記載したもの
12月24日新潟日報朝刊にいじめ見抜く眼力大切との見出しで上越市で教師・保護者らの討論会が行われたとの報道があった。この中で「いじめ見抜く教師の目は今も節穴。大人がいない場所で行われるからこそ、子どものサインを見逃さない組織作りが大切」との意見が出ていた。
いじめ報道が続くと小学校低学年以下の親達が子ども達のじゃれあいをいじめ等と言って騒ぎ始めるので「いじめ問題」は大人がいない場所で行われる種のものであることを明示したことは評価できるし、この点を強調することが必要であると私は思う。
しかしながら、「いじめ」という言い方が実は「いじめ問題」を深刻化させているという点で子どもの現状への眼力が足りないと思う。現在の子ども達の中で起きている「いじめ問題」はもはや「いじめ」といった問題ではない。きちんとした暴行・恐喝・詐欺・侮辱・名誉毀損・傷害・窃盗・器物破損といった集団的犯罪的行為である。(集団でないときもあるが、集団であることが多い)特定の子どもをみんなで無視をし、「汚い・臭い・菌」などといって行為は侮辱罪であろう。弱い子どもの物を隠したりす壊したりすれば窃盗・器物破損罪である。金銭を持って来いと脅したり、持ってこないといっては暴力を振るえば恐喝罪・暴行罪である。
人間関係である以上多少のじゃれあい・いざこざ・いじめは存在する。存在しないわけがない。仏陀も教えの中で四苦八苦(生・老・病・死の四つの苦と愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)と嫌なやつと一緒に会わなければならない苦しみがあると言っている。だからいじめがなくなることはないだろう。昔もありこれからもなくならないだろう。しかしながらいじめをエスカレートさせて犯罪行為及び犯罪的行為にならないようにしっかりと見抜く眼力が必要であると私は感じる。あえて言うならば現在の「いじめ問題」は犯罪まではいかないが犯罪的行為と考えることはできるであろう。だとするならばいじめは犯罪であるとか(いじめと言う犯罪はない)いじめ0とかあいまいな言い方をすることが逆に問題となると私は思うのである。
これ以上やったらその行為は「いじめなどと言ったものではなくてちゃんとした暴行・傷害・恐喝・侮辱罪になるのだ。やめなさい」としっかりと教える必要があると思うのだ。
現実問題として怨憎会苦と言って嫌なやつと暮らさなければならない苦しみがある。できるだけそれなりに付き合うことも大切と接し方を教えることも必要だと思う。「嫌いだったら、嫌いと言わないでそれなりに相手をすることも大切。好きなら意地悪を言っても仲間だから許される。嫌いな人に嫌い嫌いという必要はない。」くらいに伝えることも必要だと思う。それでもなお集団を組んで特定の子どもをシカトするようなことが見えないところで続けばそれを見抜いて侮辱罪と言う罪もあると教えることも必要であろう。
12月22日ともや日記
「いじめ問題」は「いじめ」と言っている限り見えなくなってしまうのではないかと私は思う。
いじめ・けんか・不登校などなどいろいろな問題が生じると「評論家」がたくさん出てきて、様々な見解や処方を提案する。教育再生会議などの議論を聞いていても様々な見解が議論百出の様相である。
しかしながらいくら議論してもいっこうに改善の方向性が見つけられないのはなぜであろうか。私はきちんと現場を見ることが欠けていることが基本であると思う。現場・現状をしっかりと認識する現認作業が欠けすぎていると思うのである。
事故でも怪我でも同じであるが、しっかりと現状・現場を見て何が問題なのかを認識することが必要である。ただその時に漫然とみるのではなくて、現場・現状の背後にあるものを見つけることが大切であろうと私は感じる。この時に見る立場と見られる立場は互いに相互関係性があるものだ。
「ともちゃんが私をキッカーボードをしていたら叩いた」とゆう君が訴えてきた。私は早速、現認作業にキッカーボードをやっている場所に出かけた。そして
「ともちゃん今日は元気か」と聞いたら
「僕は何もしていません」と答えてきた。
「何をしたの?」
「すみません。ゆう君を叩きました」
「低学年を叩くなよ」ということで終わった。
この現認活動の中でとも君・ゆう君・私は主体的な相互関係にあるのである。けっして私が裁判官のような客観的な立場にあるのではない。人間関係においては「客観的立場」ということはありえないことが多いものである。ありもしない「客観的立場」もしくは「学問的立場」もしくは「評論家的立場」が問題を深刻にすることが多いものである。
http://members.ecatv.home.ne.jp/tomoyant/origami/hako.html
もりちゃん箱がグラビティボックスとしてリニュアールしました。顔がついたら素敵な感じになりました。顔があるなしで同じ箱が変わるものです。作り方という手法は一緒でも主体的な相互関係で物ですら変わるのですね。
12月7日
昨日で専門学校の児童福祉の授業が終わりになった。最近のいじめ問題を中心に現場の対応のあり方についてのことで終わりにした。
繰り返しになるれど、一般的にいじめという言い方はよくない。乳幼児から小学校低学年までの子ども同士のじゃれあいは保障されなければならない。大人は目を離さないで手を出さないで見守ることが必要である。もちろんじゃれあいがエスカレートして危険な状況になる可能性があるならば、その前にストップをかけることが必要である。それが躾であろう。小学校低学年までに多様な人間関係を学んでおかないと思春期頃に入ってくると難しくなる。小学校高学年くらいからは子ども達は大人の見えないようにイザコザを起こす。しかも群れ遊びの体験が少ないから、ジャレアイがジャレアイで終わらないで、恐喝・窃盗・強盗・暴行・傷害・殺人・名誉毀損・侮辱・共同共謀・現場助勢等の犯罪へとエスカレートする。
とのような話をして、小学校低学年までのジャレアイを大切に。また遊び場環境作りをしよう・犯罪的行為はしっかりと実力的に安全管理的に正しい知識でしっかりと阻止することも必要だ。具体的には館内をしっかりきれいにして見守りをきちんとする。などと提案した。
最後に私の考えが正しいとは限らないが、実際に私達が児童福祉・地域福祉に何ができるかを考えてレポートを書いてもらった。さすがに80人くらいの多数の力である。遊ぶ空間を作ろう・自分もシカトされたことがあったが、仲間の声かけがうれしかった・話し合いよりもみんなで一緒の経験をすることが大切・スポーツを通して痛みを感じる経験を・自然遊びの充実を・大きな声で挨拶を自分からやってみたいなどなど多数の提案があった。
子ども達のために(それが地域・自分のためになることだが)何ができるかを考えてみた一日であった。 10月27日子どもの躾(ともやん日記より)
アグリネットという農業関係のテレビを見ていたら、会津のうほうでサル被害の対処について話が出ていた。サルが人里に出てきてた「必ず追い払う」「多数でサルを威嚇する」ことが大切と言われていた。可愛がったり、一人だけ優しい顔をするとサルは人里で作物を荒らしても良いと学習するというのである。
このテレビを見ていた人間の子どももサルも一緒だなと思った。少子時代の中で人間の子どもも自己中心で危険なことを平気でやる子どもが増えてきている。こうした場合にしっかりと大人が叱ることが必要なのだが、最近子どもを叱れない親や大人が増えてきている。またきちんと叱らないで「話せばわかる」「しっかり教える」などと見当違いの主張をさも正しそうに主張する人がいる。しかもこうした人が子どもの教育関係のオピニオンリーダーを自称していることも多いのである。危険なことや悪いことをしたらきちんと叱る(威嚇することも含めて)ことが大切である。このとき変に子どもの立場に立つ姿勢は有害無益である。
危険なことをしたらしっかり叱る。みんなでにらむことが大切と思う。その代わりに悪いことをしなければ良い顔をすればよいと思うのである。サルも人里に来たときにはにらめばよい。山にいるサルを威嚇する必要はない。子どもも一緒。悪いことや危険なことをしたらみんなでにらもう。しかしそうでないときには笑顔でいよう。こうした繰り返しで子どもたちは身体でやってよいこと悪いこと・言ってよいこと悪いこと・やってよい場所悪い場所ということを学んでいく。けっして子どもは言葉で学ぶわけではない。言葉だけで説得しようとすると小理屈を繰り返していくものだ。