私の仮説  2007.12.31 詳細トップ

                                       児童健全育成指導士 田中 純一

  子どもを健やかに育てることは多くの親達の願いであり、普通の大人の願いでもあるであろう。そして普通の大人はできるだけ子どもの快の状況を多くしてあげて、不快の状況を少なくなるような環境を整えようとする。生命や人体に悪影響のある環境を別にしても必ずしも不快な状況を用意することが子どもを健やかに育てることになるのかとの疑問を私は子どもからunderstand(=下側に立つ=理解する)することによって感じていた。
 例えばウンチやおしっこをたれてしまうことは不快な状況である。そこで最近はサラッとした紙おむつが登場した。その結果あかちゃんがおしっこをたれても不快な状況を感じることができなくなってきた。そのためにいつまでも紙おむつをしたままに成長することになる。最近では小学校低学年で紙おむつをして夜、寝ている子どもが増えているように私は思われる。昔から夜尿はあった。しかしながら紙おむつをしたままに成長することは私には子どもにとって健やかな成長になるとは思われない。少なくても私の知り限りでは紙おむつ派の子どもは自己中心でみんなと仲良く遊ぶのが苦手な子どもが多いように思う。

 人間は不快な環境から逃れ、快適な環境を作ろうと努力する動物ではないかと私は仮説を立てて考えている。そのような仮説を立てて見ると人間の発達に悪影響を及ぼさない限り、多少の不快な環境も人間の発達にとって必要なのではないかと私は思うのである。人間に悪影響を与えない範囲での不快な環境とそれを乗り越える能力を伸ばしていくとの観点から子どもの発達の仮説を立て、実験してみた結果を少し書いてみたいと思うのである。


       仮説1 子どもはおっかな面白い経験で成長する
 
なまはげや獅子舞い、泣き相撲など昔は怖い経験があったものだ。子ども達はなまはげに襲われ、獅子舞いに頭をかじられ、泣かされて成長すると思われていた。ところが最近では何でもトラウマになるなどとの主張がなされ、乳幼児の時期に怖い経験などしないほうが良いと思われがちである。でも昔からなまはげ、獅子舞いが伝統的にあったことは子どもが健やかに育つために相対的に有意義であったからであろうと思われる。子どもが怖い経験をした時にトラウマにならないで乗り越えて強く成長するためにはなまはげ等に襲われた時にどのような環境があったら良いのであろうか。
 この点を考えてみるとなまはげ等に襲われて子どもが泣いていても周りにいる大人が大喜びをしていることがポイントではないかと私は思うのである。子どもは新奇な環境に遭遇した時に自分はどうしたらよいか分からなくなると回りの愛着対象である大人の反応を見て学習するものだそうだ。これを社会的参照というのだそうだ。この社会的参照の能力をうまく使っていけば子どもはたくましい子どもへと成長することができると考えられます。

以下は■独立行政法人情報通信研究機構 infanoid project より抜粋

【母子間のやりとり】

生まれて間もない新生児でも,さまざまなコンピテンス──環境に応じていく能力──をもっています.たとえば,ヒトの顔に注目し,その口や舌の動きを模倣できること(新生児模倣)や,韻律的な特徴から母親の声を識別できることなどが知られています.これらコンピテンスは赤ちゃんが環境に働きかけていくための原動力になるのですが,それを開花させていくには周囲の人間(とくに養育者)からの導きと働きかけが不可欠です.自ら活動していく力が,その活動を見まもり支えようとする環境と出会うとき,そこに社会的発達があるのでしょう.このことを生後1年間の母子間──赤ちゃんと養育者とのあいだ──のやりとりにみてみましょう.

アイコンタクトと共同注意

〈アイコンタクト〉と〈共同注意〉は,母子間のやりとりを支える最も基本的なデバイスです.これらデバイスによって,赤ちゃんと養育者は,たがいの注意と情動を時間的・空間的にむすびつけ,その場の楽しさ・驚き・不満などを共有してきます.すべてのコミュニケーションはこのような〈共有〉からはじまるのです.

【注意と情動のつながり】

〈アイコンタクト〉とは,文字どおり,たがいの顔(とくに目)を見つめあうことです.たがいの視線や表情をモニタするだけでなく,やりとりに時間的な同期を与え,たがいが相手の視線や表情をモニタしていること──たがいが相手を意識していること──を相互了解させる役割をもっています.

〈共同注意〉とは,視線や指さしなどを手段として,相手と同じ対象を見ることです.相手の注意をフォロー(追跡)することもあれば,相手の注意を自分の視線や指さしでガイド(誘導)することもあります.その発達は,養育者が積極的に赤ちゃんの注意をフォローあるいはガイドすることから始まり,すこしずつ赤ちゃん主導で養育者の注意をフォローあるいはガイドする機会も増えていきます.対象についての知覚情報を共有するだけでなく,やりとりに空間的な焦点化を与え,同じ対象を意識していること──ゆえに表情や声はその対象についてのものであること──を相互了解させる役割をもっています.

【共感のめばえ】

〈アイコンタクト〉と〈共同注意〉によって,赤ちゃんと養育者は,たがいの注意と情動をつなげあい,さまざまな対象への関わりを相互参照・共有していきます.その対象とは,オモチャのような〈モノ〉であったり,モノの存在・動き・関係のような〈コト〉であったりするでしょう.それら対象への情動(楽しさ・驚き・不満など)を参照することで,相手がどのようにその〈モノゴト〉を感じとっているのかを共感的に捉えることができます.たとえば,初めて見る対象(見知らぬ人物など)に接したとき,赤ちゃんは,その状況を共有している養育者の情動を読みとり,それにもとづいて対象への関わりかたを決めようとします──これは〈社会的参照〉とよばれるものです.このような共感をとおして,赤ちゃんは,さまざまな対象の捉えかた・対処のしかたを,他者(とくに養育者のような愛着対象)から学んでいくのです.

図:アイコンタクトと共同注意による共感のめばえ

 なまはげや獅子舞いと同様に子どもに新奇な状況を設定し、この新奇な状況に対してアタッチメントの対象である母親にニコニコして喜んでもらう実験をすることにした。具体的には5ヶ月〜2歳くらいまでのお母さんに抱っこされている乳幼児を私が無理矢理にお母さんから取り上げて抱っこをするというものである。当然、乳幼児は新奇な状況になってのでお母さんの顔をまず見る。そしてたいていは泣き出す。この時にお母さんには可哀想だと思ってもとにかくニコニコしてもらうようにしてもらう。
 私はお母さんから子どもを取り上げて別の場所に連れて行ってハイハイせんべいなどを与えて戻ってくる。この間子どもが泣いてもお母さんはニコニコして子どもの側に寄ってこないというものだ。私が連れて戻ってきたら抱っこしてあげて「良かったね」と言ってやるというものだ。
 この実験を小学生のクラブ員を迎えに来たお母さんと一緒の乳幼児に実験をしている。1年間に4人くらいの乳幼児を相手にしている。お母さんと私の信頼関係と子どもとお母さんの関係が深いほど子どもは突然私にお母さんの手から離されるという新奇な事態への対応が早くなる。そして早い子どもで週に1〜2回、1ヶ月位で私に抱っこされても大丈夫となり、2〜3ヶ月位で自分から手を出してくるようになる。人見知りの激しいとタイプの子どもでも半年くらいで適応できるようになることが多い。
 この実験からわかった事は、子どもが新奇な事態に対応するということは、アタッチメントの対象である人の愛情と愛情を前提としたニコニコした笑顔が大切だということである。逆に人見知りが激しいとか神経質である子どもの場合にその子どもの素質の問題だけではなくて母親等の神経質な対応が神経質な子どもを育てていると考えることができるであろう。つまり神経質な母親は父方の祖父母や私のような人が自分の子どもを抱いた場合に心の中で「泣かないで欲しいなあ」と思う。すると顔が心配そうな顔になる。子どもはその心配そうな顔を見て自分は良くない状況に置かれていると判断して大泣きを始める。すると母親はますます不安そうな顔になる。子どもはますます大泣きをするというパターンに陥るのである。結果として子どもは人見知りの激しい、神経質な子どもに育っていくことになる。このことは抱っこをする私のような存在がどのように思っているかも大きく影響する。私自身はたくさんの乳幼児を扱っている。だから最近の母親よりも抱っこはうまい。多少暴れても平気だし精神的な動揺もしない。私が動揺しないから母親も動揺しない。母親が動揺しないから子どもも動揺しないという関係になっていくのである。
 子どもはおっかな面白いことを経験しながらたくましく成長していくものだと思う。これを怖い経験をさせないで、ただたんに安全・安心ばかりでもダメなのだと私は思う。昔は親世代に兄弟姉妹数が多く、子どもにとって変なおじさんが多数存在してかまってくれた。そうした愛情のあるかまい方をする人が減っていることが問題なのではなかろうか。
 平成20年1月2日にドラゴン桜のマンガが届いた。その中に論じるということは反対論を考えることも必要とのことが記されていた。私自身はいつも自分が思うままに世間の反対をやるタイプでそれを仮説を立て勝手にやっている。でも反論に答えることも必要であろうと思う。
 もし子どもがおっかな面白い経験がなく成長したとする。当然ある程度の予想が立つことになる。18歳で卒業して有名大学に入り、有名企業に就職し、60歳で定年退職して悠々自適の生活で孫ができ、100歳の長寿を全うする。これは一見素晴らしい人生のようであるが、もしそのように生きれることが保障されたとしたらずいぶんとつまらない人生ではなかろうか。人は見知らぬ人生を自分で歩んでこそ生きる意味があるのではなかろうか。おっかない面白いという新奇な体験は子どもの成長にとって必要である。もちろん大人になっても一緒であろう。



     仮説2  快と不快・・不快を乗り越えるのが快とも
 快と不快は相対的な関係ではないかと思う。快のみを子どもに提供しても子どもは快を快と認識するよりも不快の方が強まってしまう。そこで快と不快は相対的なものであり、不快を乗り越えてこそ本当の快があると考えてみた。
 具体的には乳幼児に優しい顔しないで最初に厳しい態度で臨むことである。2歳くらいの幼児が悪いことをやった時にしっかりと叱るのである。この時に幼児はびっくりして泣くことが多いが、その前に社会的参照の対象である母親を見る。この時に母親には「しっかりと叱られて良かったね」と思いながらニコニコ顔をしてもらう。叱られる(実際には大声で怒鳴られるまたは自分より小さな子どもを叩いたりしたときは手をパチンと私は叩かれるなど)ことが子どもにとって間違っていないことを母親のニコニコ顔で理解しながら同時に怒鳴られるのはびっくりするから嫌だと思う。この結果、子どもは叱られるという不快な行為を逃れるために衝動的な行為をやる前に自分なりにやってよいことか悪いことかを考えるようになる。結果的に弱い子どもへの粗暴な行為が少なくなり、褒められるということが多くなっていく。同じように寒い暑いとの環境も人間の体温に合わせて空調の温度調整をするよりも寒い時は運動をして暖かくなり、暑い時は日陰で休んだり、水打ちをして涼しくしたりと自らの行為でより良い環境を作るほうが快となることが強く感じることができる。
 私は最近、孫と祖母の関係を見ていると娘の子か息子の子かがわかるようになってきた。娘の子どもである孫に対して祖母は厳しく対応できる。しかしながら息子の子(つまり嫁の子)に対してはどうしても遠慮が出てくる。結果として嫁の子ども(息子の子)にはできるだけ嫌な思いをさせないように注意深く対処をする。結果として孫の機嫌伺いのようなことが多くなり、わがままな子どもへと成長する。
 逆に言えば息子の子どもでも可愛いと思えば厳しく対応することが必要なのである。同時に教員・保育士・児童厚生員も一緒で、自分の身内と思って厳しく対応すれば子どもは上手く成長することが多い。逆に気を使って対応ばかりしていると結果的に子どもは上手く成長できないことも多い。困るのは「評論家」がやさしく接することを提案していることだ。「評論家」にとって対象は主体的な対象ではなくて客観的な評論対象であるから身内でないことが基本にあると私は思うのである。こうした「評論家」は百害あって一利なしであると私は思う。
 快と不快を相対的なものととらえれば不快な状況も快への状況へ変容させることが大切と考えることができるようになる。
 以下は2006年6月に書いた私の日記からです。子どもの事件と2005年12月の新潟大停電に対する記述です。
 子どもの事件が多発している。もちろんマスコミがとりあげることによる多く感じることもある。しかしながら、安易で自己中心・自分だけが目立ちたいといった感じの事件が多すぎるのではないかと思う。私流の感じ方からいうと、やはり神を持たない日本人の多くに個人主義や個性の尊重だけを主張するのではダメなのではないかと感じる。犯人と言われる人の異常行動を生育歴の中でみんなに尊重されなかったとか、いやいや犯人の持つ特別のものだとか分析しているが、個人も地域も社会も仲間作りの観点から互いに我慢をしなければならないことをしっかりと学習することが必要なのではないかと思う。それはいわゆる躾とか隣保相愛・相互扶助とかの新しい現代版を作ることではないかと私は思う。 人間は仲間がいなければある意味では片時も生きていけない。一日の中でも電力会社の供給する電気をつけて目覚め、水道の水を使い、ガス会社のガスをつける。コンビニの弁当を食べというように実際的には仲間の存在なくして生きられない。
 ついこの間の新潟大停電でも信号は動かない、調理はできない、官公庁では肝心の自家発電も動かない、暖房器具もダメ、このまま夜になったrらどうなるのかと思ったばかりであるにも関わらず、物質的な豊かさにおぼれて、人間関係の心の豊かさを育てていないのではないか。それが日本における個人主義のように思う。人は助け合って人間である。そのために人間関係のあり方・我慢の仕方・ふれあいの仕方などをしっかりと社会の中に位置づけることが必要である。
 自治会でのことである。分別ゴミを分別しないで捨てる人がいた。拾ってきて調べてみたら某町の青少年健全育成対策協議会の委員をやっていることがわかった。車のエンジンオイルの廃油を近くの小川に廃棄して「安上がり」と偉ぶっている人が学校の校長をしていることもある。こうした人がいる反面、大校長先生なのにいつもマイ掃除機を持って校内を清掃している人もいる。また毎日草取りや清掃を欠かさない管理職もいる。どちらが個性的で個人として自立していると考えることができるであろうか。
 個人主義ではなくて仲間作りを通して個性を磨くといった方向にならなければと思う。

 このことを快と不快の概念で考えてみるとみんなの苦しいことはがんばりあって快となり、自分だけ苦しいと不快になるとも考えられる。不快な環境をみんな一緒と考えて助け合って生きていくことに人間は快を感じるのではなかろうか。このことが快と不快の基本であると私は思う。そして正反対のサド的な感覚の中に他人の不幸と自分のみの幸福を喜ぶ気持ちがあるのではないだろうか。そしてそれは破壊的な方向へと人を導くように感じる。だから死ぬ直前に人間は仏になりうるのではないか。
 快と不快が相対的なものでなければ、快のみが追求されることになる。快のみの追求は結局のところ不死を求めることになる。不死はすべての生命の望みかもしれない。すると生きることは死と同一になってしまうのではなかろうか。永遠の生命を求めることは快や不快を超越する。快・不快を超越すれば生命を超越するが生命ではなくなるという自己矛盾となるのではなかろうか。


     仮説3 仮説を3回立証すれば
 いわゆる科学の知の根拠は客観性・普遍性・論理性である。ところが個々の事象は主観的・個別的・宇宙的である。一つの手法が有用であるかどうかは科学的な実験を何回も繰り返して実証すべきとの科学的な考えがある。そうできるものはそうすべきであろう。でも臨床的な現場では必ずしも科学の知のみでは解決できないことが多い。そこで科学の知と臨床の知の併用が必要となるであろう。臨床の知をある程度みんなに納得してもらうには仮説を立て3回同じことが繰り返されればほぼ間違いないと考えることもできるのではないだろうか。
 人間には男性的な性と女性的な性があるように思う。男性的な性とは「棒があったら振り回し、石があったら投げ、高いところには登りたがり、狭いところにはもぐりたくなるというアグレッシブなタイプである。女性性的なタイプは社会的参照能力に優れ、何かやる前に周りの状況を確認するタイプである。私自身の感じからいうと10人の男の子のうち9人が男性性的で1人が女性性的である。逆に10人の女の子のうち9人が女性性的で1人が男性性的である。男性性的であろうと思われる子どもに突然に物を強くパスをすると跳ね除けることが多く、女性性的な子どもは受け止めることが多いとの仮説を立てて実験をする。
 日ごろアグレッシブな子どもに「この子どもは跳ね除ける」と仮説を立ててやってみる。ナイーブな子ども「この子は受け止める」と仮説を立ててやってみる。この仮説が3回(アグレッシブ・ナイーブそれぞれやるから6回)立証できればある程度子どもの性格を実験によって見極めることもできるであろう。(もちろんこの実験は相手に実験意図を知られていては成り立たない。突然、考える余裕無くやることが必要である。)
 仏の顔も三度まで・二度あることは三度ある・三つ子の魂百までも・無理は三度・三人寄れば文殊の知恵・石の上にも三年など日本のことわざに3が多いのは3と言う数字はある程度人を納得させる数字ではなかろうか。
 判断に迷う時に3人の仲間の意見を聴いてみんな同じならそれに従うことが良いことも多い。確率論的に考えてみても2×2×2と3回かければ確率はとても高くなる。
 もう一例
 男の子どもは平らな所は走り回る。いつも走り回る子どもがゆっくり歩いていたら微熱があることが多い。と私は思っている。だからいつも廊下を走り回っている子どもがゆっくり歩いていたら熱を測ってやる。熱が無い場合は誰かとトラブルを起こしていることが多い。逆に女の子は熱があっても平気である。普通に歩いている。そして関節が痛いということが多い。女の子が関節が痛いといったら熱を測ることは大切である。
 もう一例
 事実と現実と真実は一致するとは限らない。人間の脳は主観的なものだから自分の都合の良いように補正をしている。この補正作用がなければ人間は生きてはいけないだろう。ということは一つの事実や現実に対していくつもの真実があるということだ。「○○ちゃんが叩いた」との主観的な訴えがその子にとって真実でも○○ちゃんにとって事実でも現実でもないこともある。でも本人が真実と思っている以上はそれ以上に追求するよりは「あとで○○ちゃん叱っておくからね」でやめたほうが上手くいくことが多い。私はこの手法でたくさん成功している。
 「○○ちゃんが叩いた」との原因追求をして上手くいかないほうが多い。だから訴えてきた子どもの訴えを受け止めながらさらっと流すとの手法を試しに3回やってみたらと主張している。
 仮説を3回立証しても信じられないとすれば何を人は信じればよいのであろうか。偶然の3回の一致は奇跡に人間にとっては近いのである。怪しい宗教団体はこの3回の奇跡を意図的にパフォーマンスしていると私は思う。意図的でない3回の仮説の立証はかなり正しく、背後に意図的なものがある時は怪しいと思うことが必要である。だから権力を握った時に苦言を言ってくれる人は貴重である。なぜならば権力者には甘言を言う人が多いからである。逆に苦言を言ってくれる仲間が3人いたらずいぶんと真実が見えてくるのではなかろうか。


    仮説4 ダメはダメ・・説得は効果が無い

 子ども相手の仕事をしているときちんとした説明義務みたいなものが必要と主張される人が最近多くなってきた。これを悪い意味で学習した子ども達は「何で」「どうして」「説明してください」などと口だけは達者な子ども達が出てきた。私はダメなものはダメを通すことのほうが効果的であると考えている。説得は効果があまり無いことのほうが多い。
 銃器を不法所持した不審者情報などが入った時に屋外遊びの禁止措置をとることになる。こうした場合に子どもに「銃器を持った不審者がいるので外遊びを禁止します」などと一々説明することが必要であろうか。口達者な子どもは「その情報はどこの情報ですか。」「どこの地区の話ですか」「何時のことで可能性がありますか」などと聴いてくるであろう。そんなたわ言を相手にする前に屋外で遊んでいる子どもを速やかに屋内に呼び戻し、緊急連絡体制に入り、保護者・地域との連携を早めに実現することが必要である。