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 私の父は今から12年前になくなった。暑いときは暑いのがいい。寒いときは寒いのが良いという人だった。12年前に母は寒い冬にもなかなか暖房をいれない父と暮らしていて、体調を崩し、病院に4ヶ月ほど入院していた。父はホームヘルパーさんの手伝いで元気に一人暮らしをしていた。姉と私と弟で声かけをしていた
 3月24日だったかな。父は[マルクスの資本論を読み上げた]と近所の人に自慢して回り、家に帰った。お風呂に入り、ご飯を食べ、姉に電話を入れ、電気毛布の布団に寝て、そのまま起きてこなかった。翌朝、鍵を閉めっぱなしの状態にヘルパーさんが不審に思い、私の職場に電話してきた。万が一を考え、ボランティアの仲間に付き添ってもらって父の住む家にいったがすでに遅かった。でも父の人生は幸せで充実したものだと思った。
 実は本題はこれからである。父の死ぬ直前に読み上げたというマルクスの資本論を私もその10年前に高校生のときに読んでいる。読んでいるというよりは、ほとんど寝ながら文字を上滑りしただけである。
 しかし寝ながら読んだにも関わらず、資本論の特徴は実は共産主義のあり方をいっているのではなく、きわめて冷静に資本主義の実態を科学的に分析していたということだけはわかった。この部分が眼むたくなる所以でもあったのですが。眼を開けていたのは、マルクスがイギリスの資本主義の発達段階で、幼児をも羊毛工業の機械の清掃に使ったこととか、乳児を静かにさせるためにアヘンを乳児に飲ませていたという状況に憤りを感じたことである。マルクスもこの憤りから資本主義を乗り越えなければと思ったのだと思った。


 マルクスの資本論の段階から現代はかなりの時間が経ち、しかもマルクスの理想だったはずの共産主義が実は「宗教的」独裁制みたいな物であるようになってしまい、ある一部の特権階級の利己主義の実現の手段となってしまったようだ。その結果、共産主義も破綻し、かといって資本主義も絶対的正義でもないという難しい時代となったように思う。 
 精神的な自由という意味では、個人的な利己主義的価値観より、自然との共生や友達との共生が大事との時代になって欲しいと思う。そのために、自分の力やある程度の財産やアイディアを地域みんなのために自主的に提供することをいとわない社会にしたいと思う。
 問題は物質的な価値についてである。現に貨幣とか財産とか価値とかがある以上、きちんと考える必要があると思うのである。貨幣の価値は国家に保証されたものだし、とりあえず消えることはない、蓄えることもできる。同時にお金さえあればなんとかなりそうだ。逆にお金がないと何にもできそうもない。


 児童館・児童クラブ・児童遊園の活動の中で、そこらへんを突破できないかと私は考えている。マルクスの計画経済による社会主義・共産主義といった失敗と利益優先主義の資本主義の問題点を止揚する手法がないのであろうか。そこで価値論を少し考えてみたいと思ったのである。


 児童館・児童クラブ・児童遊園の活動をしていて気づいたことがある。それはある程度の物が集まるとそれ自身価値を持つのである。企業等で宣伝用のチラシを作る。宣伝期間を過ぎると無価値になるだけでなく、処分費が必要となるのである。しかし、大量の同じ絵柄のチラシは正方形に裁断することにより、折り紙以上の折り紙になり、すばらしい価値あるものになる。企業でいらなくなったチラシは、児童館に来て加工をされ、他の児童館・児童クラブ・保育園等に分散され、価値を生んでいくのである。
 集中・加工・移動・分散のプロセスこそ価値を生む過程ではないかと思うのである。そして繰り返しリサイクルをうまくやっていくことが、人間に優しい地球を守ることでもあろうと思う。
 

   集中
 石油産出国が豊かなのは、石油という集中が自然の摂理の中であったからである。同様に豊かな漁場とか金の産出も集中による一つの価値であろう。この価値を求め、帝国主義は覇権を争ったように思う。でも21世紀はこうした覇権を争うには地球はもう狭すぎる。だとするならば、意図的な集中を図る必要があるのではないか。自然の力のみに頼らないで、人間の力を集中して、意図的な集中を図ればそれは価値を生むことになる。児童館・児童クラブ・児童遊園でも意図的な集中が価値を生むことを大事にするべきと思うのである。
 私の家の前に2千坪の平島児童遊園がある。10年前から除草剤をやめて、代わりに芝刈り機と草払い機で刈っている。刈った草を3年ほど前までは公園管理をしている役所に持っていってもらっていたが、最近積み重ねて腐葉土を作っている。近くの畑を作っている人がもらってくれる。そしてジュース代を寄付していれる。うまい集中は価値を生むのである。
 職場の柿の木は甘柿である。背が高くなりすぎて上のほうは柿の実が採りにくかった。2年前より柿の木の剪定を始めた。上に伸びすぎず、子どもの背に届く高さよりも高く(痛い虫にやられないように)剪定し、楽に収穫ができるようにした。豆柿・甘柿ということでみんなに喜ばれて食べられている。児童クラブのおやつにもなる。
 フリマーケットなども集中の典型である。自宅でいらなくなったマンガ本・衣類・おもちゃなどが集中することで価値を生む前提ができるのである。集中は価値を生む前提である。児童館・児童クラブ・児童遊園は多人数が遊びに来る。集中の拠点である。だから集中を作ることができる。


   移動・加工
 移動と加工はどちらが先になるかはその状況しだいである。企業でいらなくなった大量のチラシが児童館・児童クラブへ移動し、正方形に加工されることもある。直接裁断してもらってから児童館へと移動することもある。集中したものがその場所で加工されるてから移動するか、移動してから加工されるは別にしても、移動と加工は価値を生むための大事なことである。
 山菜の採れる地域の人に山菜は売れないであろう。山に住む人は自分で採りにいくから。山菜を採りそれを山菜のない地域に移動することで価値は出てくる。きのこ等の傷みやすいものなら水煮等に加工してから移動することで価値を生むことになる。


  分散
 分散も大事である。分散の過程こそ直接的な利益を得ることができるからである。一昨年の秋にかなり多量の銀杏を拾った。大事にとっておいたわけではないけれど、昨年の暮れまで放っておいてしまった。1年以上たった銀杏はゴミとなってしまった。賞味期間のあるものも含め、お金までもうまく分散させることが大事である。大量に集中できてもそれを分散できるシステムを持たなければ集中により、ゴミの山になってしまう。集中し移動・加工されたものが速やかに分散されるシステムを児童館・児童クラブ・児童遊園等で作れればと思う。


  集中・移動・加工・分散のリサイクル
 一度分散したものもまた集中することで価値を生んでいく。紙のリサイクル・生ゴミのリサイクルなどもそうであろう。最近では海が豊かになるためには川の上流に豊かな森があることが大切であることがわかってきた。そこで漁業関係者が豊かな森を作るために山の植樹活動を始めている。新たな集中を生むためには自然の力からもらうだけではなく、人間に優しい地球になるように人間からの働きかけが大切であると思う。


  児童館・児童クラブ・児童遊園の活動と価値論
 私自身は集中・移動・加工・分散のリサイクルの過程が価値を生むと考えている。その価値とは人間にとっての価値であるから、人間の多数集まる児童館・児童クラブ・児童遊園を作ること、そこにみんなのためになる価値を創造することを意図的に取り組めばずいぶん面白いことができるのではないかと思うのである。
 

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