男の子は本能的に平らな所は走り回り、棒があったら振り回し、高いところに登り、石があったら投げ、カーテンにすがる。これは男の子の本能的なものであり、男の子は思考した結果、このような行動をしているわけではないことを理解してあげることが大切と思っています。
走ったり、石を投げたり、高いところに登ったりしても「何を考えているの」などというよりは「この場所では走らないこと」と足に行動療法的に教えてあげることが必要であると考えています。
このように話をするとなかなか理解できないお母さんがいます。「自家用車を運転する時に次の信号を右折するからバックミラーで確認をして方向指示器を右折に上げて中央車線により、ブレーキを踏んで」などと一々考えてやっていたらパニックになるでしょう。ですから脳はオートマチックなのです」と話をして、男の子の行動も不必要な行動をしなくてもよいよいに行動療法的に身体に覚えさせることが必要と話をしています。
実験2 児童センターまでの道のり 児童センターまでの道のりを東京から来る場合で説明を考えてみました。男の人には「高速道路を新潟西インターチェンジで降ります。新潟西インターチェンジから黒崎インターチェンジの方に500メートル位向ったら黒崎インターチェンジを左折して下りてください。その後200メートルくらい行ったらまた左折をして信号を5本くらいおおよそ2キロメートル直進すると踏切があります。踏み切りを直進して信号を二つ越したら左折をして800メートルくらいのところにありますので、その近くで電話をくれるか聞いてみてください」と教えるでしょう。この話をお母さん達にしたら、「全く理解できない」というのです。そこで手法を変えてみました。
「新潟西インターの料金所を過ぎたら、黒崎インター方向に向ってください。道なりに左へ左へ行くと黒崎インターを下りることができます。黒崎インターを道なりに左に行くと右手前方に高助(JOMO)のガソリンスタンドが見えますので、その信号を左折してください。走っていくとアピタが左にイタリアンレストランが右に見えます。そこをまたまっすぐに走ると右手に蔦谷というレンタルショップがあります。その信号も直進して進んでいくと信号の側に『なか卯』といううどんや牛丼が売っているところがあります。そこの信号も直進し、越後線の踏み切りを超えて行くと旧国道116号線があります。その信号を超えると右手にお菓子やさんや弁当やがあります。それを右に見ながら坂道を下ると右前方にセブンイレブンがありますので、その手前の信号を右折してください。しばらく行くと右手に小さな蜂蜜屋さんと左手に薬局が見えます。その薬局を越えたら右手に大きな診療所と左手に薬局がもう一つ見えますので薬局の手前で左に曲がると診療所の駐車場に入れます。診療所の前のコスモスの絵が描いてある物置のある白い建物が児童センターです。わからなかったら、近くで聞いてください。」と話をしました。お母さん達は「なぜ最初からそのようにわかりやすく言わないのか」と言うのですが、男に説明する時にアピタだのなか卯だのあまり興味のないことは分からないのです。小さな蜂蜜やなどは住んでいても知らない人の方が男には多いのです。問題は右折してから概ね何メートルかが大切なのです。また男の人は機能が問題ですから、物置にきれいにコスモスの絵を描いてあったも気づかない人の方が多いのです。もちろん分かる人がいないわけではないのですが。
女性性的な指導の手法と男性性的な指導の手法石井芳裕さんが「鼻くそを食べる男の子」について以下のコメントを書いてくださいました。
小学校は女性的,中学校は男性的な教え方というのは、妙に納得です。
石井の感覚では、小学校・特に低学年では、女性教諭の母性的な力で
学級運営が行われ、学年が上がっていくに従って、男性教諭の父性的な
やり方に変わっていく。そして中学校になると、教科毎に担当が変わると
いう、白黒がはっきりした世界になります。
まったくその通りと思います。私の感覚からも低学年の男の子は女性性的な教えられ方で注意欠陥傾向などと言われて落ちこぼれ、下手をするとそのまま落ちこぼれ人生となることもあります。女の子は小学校低学年まで優秀なのですが、小学校高学年頃から始まる男性性的な授業についていけなくて落ちこぼれてしまうことが多いようです。これは男の子にとっても女の子にとっても不幸なことです。
具体的に女性性的な指導の手法と男性性的な指導の手法を明らかにして、不幸な落ちこぼれをなくす必要性を私は感じています。
第1弾として先に分数や小数の割り算や児童センターまでの道の案内の仕方などを書いてみました。この続きでいくつかの提案をしたいと思います。
折り紙を作る場合で考えみたいと思います。
始めて折り紙を折る時に、例えば兜を作るとします。女の子には見本を示して「今日はこんな兜を作ります。作り方は最初、三角に折ります。それを四角になるように上に折りあげます。」というように全習法のやり方を女の子ども達は喜びます。男の子にこうした全習法でやると途中で「これは俺が知っている」と邪魔を入れる子どもが出てきます。このことについては「街場の教育論」の中で内田樹さんが競争原理ばかりの教育の中では「俺知っている」との発言は他の人の学習を阻害する無意識的な行動であると見抜いています。この学習への邪魔が男女一緒のクラスの場合では問題となります。多くの小学校においてこの種の発言で授業妨害が行われていることが多いのです。
女の子の場合ではなくて男の子の場合で折り紙をする場合の手法は全習法では上手くいきません。男の子は最初から結果の分かっている兜などは折りたくないのです。男の子はもっとドキドキするものでないと楽しくないのです。折り紙の向こうに何があるかわからないようなものが良いのです。また男の子は同じ場所でじっくり折り紙を折るのは苦手です。狩猟をしていた脳は一ヶ所に長くいることは獲物が逃げてしまうし、敵に襲われることもあるでしょう。ですから身体が常に動くことが快感となっています。
そこで「赤と青と黄色の折り紙のどれがいい」と提案して、その後に「その折り紙を三角に折って頭の上に載せて体育館を一周しておいで。「今度はその折り紙を四角に折りあげて股の下を30回通します。「次にその四角を半分だけ上に折りあげて空中に放り上げ、紙を傷めない様に空中でキャッチします」といった分習法のやり方が効果があります・
今までは私は男性性的な手法を主に用いて折り紙を教えていました。全習法でやるとADHD傾向の子どもの多い私のクラブでは男の子がついてこれないからです。このため女の子に我慢をしてもらっていました。昨日から男の子と女の子を30人くらいづつ2グループにわけ、教えることにしました。職員2人が別々に別々の手法で教えればよいのです。もちろん同じ部屋でやっていますから、男の子で女性性的手法が得意な人はそっちにいけば良いし、反対もありです。こういうケースにおいて男の子の中で「お前は女の方に行った」などと変な茶化しを入れたらきつくきつく叱られることになります。
折り紙の折り方一つとってもこのように手法は違ってきます。
次に自然科学館等へいく場合で考えてみましょう。
女の子には大まかなスケジュールを教え、自分達で大まかな計画を立てさせることが指導の手法として効果があります。「今日は自然科学館へ行きますが、並び方は学年別に並んでください。バスの中では大声を出したり、席を立ったりしないでください。自然科学館ではエスカレーターの逆走は禁止です。自然科学館では外の電気自動車に乗ります。昼食後に午後1時のプラレタリウムをみます。その後にみんなで1時間自由遊びをして午後3時に自然科学館を出発します。児童センターに帰ってくるのは午後3時半頃の予定です。」と話してもほとんどの子どもが理解ができます。
小学校低学年においてもこうした手法が使われているので男の子はたまったものではありません。男の子には3っつ以上の指示は理解できなくなります。集合する時に「学年別に並べ」バスの中で「バスの中で騒ぐな、窓から手を出すな。席を離れるな」自然科学館で「学年別に集合せよ」エスカレーターの前で「エスカレーターを逆送するな」昼食場所で「ゲームボーイ等は1時間自然科学館を見学しないとやってはいけない」などと分習法的に一つ一つ指示をしたほうが効果があります。
今後私としては男子と女子に分けて自然科学館へ行こうかと考えています。
これからいろいろな場面での女性性的な手法と男性性的な手法を提案していきたいと考えています。これを混合してやればよいとの考えもありますが、人間の脳は同時に二つの手法を受け入れないことが多いものです。一つの手法をオートマチックに習得してその後に別の手法も学ぶことも大切ですが、最初から混合でやるとこんがらがって効果がありません。それが今回の「女と男」シリーズで学んだことです。
女の料理・男の料理 女の人は男が料理などをしないと批判することがある。そこで自分なりの料理をするとこの料理はなんなのとまた批判をする。それで男は料理をしたくなくなるのである。
日本の支配階級となった武士の先祖はどうもマタギらしい。これは社会人類学の学者が武士階級の文化(鷹狩り・お茶などなど)から分析したものである。マタギが祖先と仮定すると目上の人がお茶を出してお客様を接待したり、草取り・ゴミ拾いも自分でやることは理解できるし、日本文化のとても大切な部分であろう。
同様に日本人の男は自分が料理をすることを基本的には厭わないと私は考えている。ただしがつく。マタギ的な考えがある日本の男の料理は会席料理のようなものと違うのではないかと思うのである。ご飯とおかずを一品一品並べるような料理は男の料理に似合わない。マタギとしても武士としてもそして狩猟をしていた先祖から考えてみてもご飯は食器が少なくまとめたものが良いに決まっている。だから男の料理はすべてのものが一緒になったカレーライス・具入りおにぎり・チャーハン・雑炊・サンドイッチ・丼物・ビビンバ・ピロシキ・おやきのようなものが良いと思う。一品の中に野菜・タンパク質・炭水化物などがたくさん入ってそれ一つで全ての栄養がクリアーできるようなものが良いと考えられる。宮中料理のように煌びやかなものよりもそんな料理が良いのである。
こんな風に考えてみるとお母さん達もお父さんに料理をさせたかったら、小皿をたくさん必要な料理を要求するべきではないと思うのである。ごった煮・コごった集め・ごった炒め的な料理を楽しむことを覚えることが必要となろう。
こんな風に書くと男でも繊細な料理をするではないか。むしろ男の料理人の方が繊細ではないかと主張する人もいるかもしれない。私もプロとして女の子を教えるときはアマチュアのお母さんよりもはるかに女性性的な手法を活用して上手く教えることができる。今問題としているのは家庭における日常の食事の話であり、レストランの料理の話ではないのである。家庭の普通の食事を考えてみると男にはごった料理が似合う。
ラーメンは基本的には男の料理の仲間であろう。だから本格的な中華・和食・フランス料理などとは別の領域にあるようだ。ところが最近、ラーメンの世界にも女性向けにラーメンと別に具を小皿に入れていろいろ並べるものが出てきたようだ。男的ラーメンが女性的に変化しているのではなかろうか。
小学校等における家庭科の料理は女性性的な料理がほとんどである。だとするならば男も楽しんで料理ができるように五目ラーメン・五目チャーハン・具沢山カレー・具沢山雑炊などの男性性的な料理もいろいろ入れたらずいぶんと料理好きな男が増えるのではなかろうか。そして宮廷料理的なものとごった料理の両方を楽しむことができるのではないかと私は思う。
私の本音
今回の「女と男」のNHKのシリーズは私にとっては画期的なドキュメンタリーシリーズでした。一つには女性性的脳と男性性的脳のMRIによる科学的な証明をしてくれたことです、 脳の解明が進み、「」付き日和見主義主義者の退路が絶たれたことが私は嬉しく思っています。「」付き日和見主義者はある時は女性性的な反応が正しいと言い、ある時は男性性的なことが正しいと言います。その上に男性性的・女性性的という言い方そのものが間違いでジェンダーフリーとかうまく両立しろと自分はできないことを他人に強制する事です。
自分にできないことを他人に強制するのは間違いです。そしてある種の主張をすることで自分のみが正しいと言い張ることが私にはおかしいと思います。
人間の脳は二つのことを同時にやることは難しいようです。つまり私は今、ローマ字打ちでパソコンを打っているのです。この時に私の思考を指が、ほとんど無条件でローマ字で打ってくれているのです。これが突然、日本語のあいうえおのパターンで打とうとすると思考は停止するのです。つまり、どのキーを押したら良いかが分からなくなるのです。このことによって私はローマ字打ちなら思考の思うままに打てるのに、あいうえおで打つとなると自己表現が百倍時間がかかることになります。このことをジェンダーフリーの人たちは気づいていないか、意図的に無視しているように思われます。
野球でワンストライクツーボールと表現するかツーボールワンストライクと表現するかはどこかでチェンジして改める必要があるのであり、中間的な表現はないでしょう。テレビもデジタルかアナログかの放送があるのであり、その中間はありません。子どもの教育においても男性性的な手法と女性性的な手法は多くの場合に両立していないと私は自分の経験から強く感じています。ちょうどローマ字打ちかひらがな打ちかデジタルかアナログかと同じ程度の違いがあるのです。早急にこのことを調べ上げて同性クラスを作ることによって女の子も男の子も生き生きとした学習ができるようにと強く願っています。
観念的でドグマ的で評論的な考え方から、目の前の女の子・男の子の姿を素直に受け止め、どのような手法がより良いものになるかを検証していくことが必要である。子ども達の学習を阻害しているものがなんであるかをしっかりと見つめなおすことが必要である。その上で新たな手法を開発していくことが必要である。教条主義に囚われないで新たな試みをして、成功すればそれを取り入れ、上手くいかなかったら違う手法を見つけることが必要である。そのような試みをしなければ日本の子ども達の教育環境は物質的にはよくなっても質的にどんどんと逼塞状況に追い込まれていく。子どもの学力低下・子どもの暴力の増加・教員のノイローゼ・モンスターペアレントの増加・学級崩壊・学校崩壊が続くだろう。
「女と男」の学習方法の手法だけでもちろん教育問題が解決するわけではない。様々な問題が教育問題の中には絡み合っている。だからこそできることから一つ一つ地道に解決する手法を見つけていくことが今こそ必要と思う。
社会的参照の能力(女と男)
あかちゃんの能力の中に社会的参照の能力があるといいます。社会的参照能力とは自分が解決できない問題について自分のアタッチメント(愛着)の対象であるお母さん等の顔を見て行動の判断をするというものです。このことは放送大学院の臨床心理学の乳幼児の心理から学びました。
心理学用語からの以下はコピーです。
社会的参照
社会的参照とは、他者への問い合わせとも言う。乳児期における情動的やり取りは情報としての価値を持っており、1歳前後では、行動決定に迷うような曖昧な状況では、大人の表情を手がかりにして承認を求めた上で行動化するということ。自我発達の初期において、そのような周囲の大人は、一般化された他者と区別され、重要な他者(意味ある他者)と呼ばれているのである。
具体的な事例ではあかちゃんの机の上においてその前にアクリル板で作った透明の板をおきます。あかちゃんと机とアクリル板の前にお母さんが立っています。あかちゃんは机のところをハイハイしてきますが、アクリル板の前が高さ1メートルほどの視覚的断崖になっているので、そこで止まります。あかちゃんも危ないとのことが分かるのです。でも目の前にお母さんがいます。そこでお母さんの顔を見て、お母さんがニコニコしていれば、アクリル板を渡ってお母さんに近寄るし、お母さんがダメという顔をすればそこに留まるというのです。
この社会的参照の能力は本能的なものであるとのことです。
女と男の関係で言えば、女の人は社会的参照能力が強く、男は大人になるに従って社会的参照能力が落ちていくようです。小学生の場合で言えば、授業中にサイレンの音がした場合に、男の子は「なんだろう」と思い、席を立って窓際に本能的に行こうとします。女の子も「なんだろう」と思うのですが、本能的に先生や他の人がどのような行動をするかを見るという社会的参照の能力・本能を発揮しますので、すぐには席を立たないことになります。たぶん狩猟を主としていた男にとって新奇な事態には速やかに反応することが必要とされていたからでしょう。採取を主として女の人には相手は動き回るものではないので、しっかりと見極めることが必要となるのであり、急いで飛びつく必要性がなかったのではないかと思われます。
ADHD傾向の子どもは圧倒的に男の子が多いようです。統計的には4倍くらいのようです。ADHDはアテンションがデフェクトしているように言われ注意欠陥と訳されていますが、私は子どもの現状をしっかり見てみるとアテンションがハイシシンビテイィ=注意過敏であるように思っています。つまり注意が欠陥していたら、サイレンの音などに反応しないからです。注意過敏であるからこそ多動にもなります。ADHDではなくてAHHDであると私は命名しています。アテンションがハイシシンビティである子どもに対して「今は授業中だから席を立たないで座っていなさい。よく考えて見なさい」などと話をしてもどうしょうもないのです。「周りを見て同じように行動しなさい」とだけ命令すれば良いのです。子どもが「でも先生サイレンの音だから火事かもしれない」と言ったら、「みんなの命は先生がしっかり守るから心配いらないよ。どこが火事かは携帯電話で校長先生が調べているから大丈夫。もしあなたの家の近くとの情報が入ればすぐに校長先生が教えてくれるよ」と話をすればよいのです。(私の場合はすぐに携帯電話で火事案内を聴き、子どもにもそのアナウンスを聞かせてあげます)
3歳以下の場合はまだ充分に身体を自由に動かすことができません。ですから社会的参照の能力が働いています。ところが自分の身体を自由に動かせるようになれば、社会的参照の能力よりも自ら動き回って事態を確かめる能力が出てくるのは当たり前であると考えられます。とくに男の子はこの傾向を強く持ち始めるようです。ですからAHHD傾向の子どもには男の子が多いと考えられるでしょう。
こうしたAHHD傾向の子どもに対する現在の小学校低学年の教育は女性性的でじっくりゆっくりとの考え方が主流を占めています。本当はもっと運動療法を取り入れて疲れるまで動き回るように指導すれば、子ども達は必然的に情緒が安定して、じっくりゆっくりと行動することができるようになると私は実験的に確かめています。具体的にはローラースケートや水泳などを取り入れることです。また音楽と体育の組み合わせ・社会と体育などを組み合わせて、身体を動かしながら学習をさせることです。
女と男の違いの中で社会態参照能力が極めて大きい存在であるのではないかと私は感じています。