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「女と男」(NHKのドキュメンタリーシリーズより
          2009年1月15日 

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 「女と男」についてのNHKのドキュメンタリーシリーズがとてもためになったので、自分のブログと平井さんのブログのコピーを記録しておきたいと思います。
斜め文字はNHKのコピーです太い文字は平井さんのブログのコピーです。普通の文字は私が書いたもののコピーです。

「女と男」のNHKのドキュメンタリー第2回のNHKの紹介をコピーした。
男女平等の国・アメリカで新たな“男女区別”がはじまっている。小学校や中学校の義務教育現場で、男女別授業を行う学校が増えているのだ。成長期には特に男女差が出る。そこで、それぞれの性に合った教育をしようという試みなのだ。また、医学の分野でも、病気の男女の違いを重視する動きが広まっている。
 そうした動きの背景にあるのは、いま新たな男女差が次々と見つかっていることだ。特に、脳は性ホルモンなどの影響で男女の違いが意外に大きいことが最近になってはっきりしてきた。
 なぜ脳に男女差があるのか。そのヒントは、「同じことをしていても、脳の使いようが男女で異なっている」ということだ。たとえば、地図をたどっているとき、男は空間感覚を利用して地図を見るが、女は記憶や目印を手がかりに地図を見る。つまり、同じことをしていても両者が使っている脳の分野は異なっているのだ。脳が違うのは、「男女それぞれで得意なことが違う」ということなのだ。
 では、いったいなぜ、人間は男女で得意なことをわざわざ違うようにしたのか。それは「ともに生き延びる」ためである。長い、長い狩猟採集時代、ヒトの祖先はいつも飢えとの戦いのなかにあった。そこで役割分担をしていろいろな食糧を確保する生存戦略を採ったのだ。その結果、狩りを担当した男は空間感覚を磨き、収集を担当した女は目印を利用する能力を磨いたと考えられるのだ。その祖先の能力がいまの私たちにも引き継がれているというわけだ。
 その一方、思いがけない男女差も見つかっている。知能テストを解くときに使った脳の場所を調べたところ、男女で違っているらしいという事実が浮かび上がってきた。どうやらそれぞれが得意な能力を生かせるように、男女では脳のネットワークが異なっている可能性が高いのだ。狩猟採集時代とは違って、現代では男女の役割も仕事も生き方も多種多様である。そうした多様性にも対応できる柔軟性を私たちの脳は獲得していると考えられるのである。
 女と男の違いの最新研究を通して人間の歩んできた道筋をたどるとともに、医学や教育などではじまっている、男女差に注目する新たな潮流を描く。
 というものである。番組の中で男の子のクラスにおいて読書の時間の様子が紹介されていた。他人に迷惑をかけない限りにおいて机の下で読書をする子ども・寝転がって詠む子ども・高いところで読む子ども・椅子に座って読む子どもなどがいた。実は私は1時間読書をする時に15分くらいでマッサージの椅子・カウチの椅子・普通の机と椅子・ごろ寝で読むなど姿勢を変えて読んでいる。自分ばかりかなと思っていた。恥ずかしくて聴けないこともあったが。子のテレビを見て、職場の子どものお母さんにお父さんの様子を聴いてみたら、3分の2くらいのお父さんが私と同じようであるとのことであった。男族としては同じ場所に15分もじっとしているのは本能的に受け付けない要素があるようだと私は考えた。
 
案外に調べてみないとわからないことが多いものだ


[999] 第一回目の要約
ともやん    ++ ..2009/01/15(木) 08:49
 
男女はなぜ惹かれあうのか。脳科学はいま、恋のメカニズムを解明しつつある。その中心はドーパミンという脳内物質。快楽を司るドーパミンの大量分泌が恋する二人の絆となっているのだ。
ところが脳科学は同時に、皮肉な状況も浮かび上がらせている。高い代謝を要求するドーパミンの大量分泌は身体への負担が大きく、長く続かない。そのため、“恋愛の賞味期間”はせいぜい3年ほどだというのだ。実際、国連のデータでも、多くの国で離婚は結婚4年目にピークを迎える。
なぜ4年程度しか恋のシステムはもたないのか。それはそもそもの起源と深い関係があると考えられている。もともと恋愛システムは、人間の子育てのために発達したという。二足歩行と脳が大きくなったために、人間の出産・育児は他の類人猿に比べても極端に負担が重いものになっている。そのため、子どもが確実に育つよう、いわば夫婦で協力して子育てするという仕組みを発達させたと考えられるのだ。つまり、子どもがつきっきりの世話が不要になる4年程度で、恋愛システムはその役割を終えるわけだ。
しかし、いまの男女関係は子育てのためだけにあるのではない。そこで、男女関係はどうすれば長続きするのかという科学的な探求がさまざま進められている。アメリカでは30年に及ぶ家族の長期研究を通して、長続きしない男女関係では、男女差が大きな障害になっている事実が浮かび上がってきた。たとえば、女は、相手の顔の表情から感情を簡単に読み解くが、男は必死に脳を働かせてもハズす。女が悩みを相談するとき、話を聞いてもらいたいだけなのに、男は解決策を示そうとしてしまう。
こうした男女の違いは、長い狩猟採集時代の遺物ではあるが、無意識のなかに深く根ざしており、日常生活のなかで深刻な影響を与えやすいという。違いをちゃんと意識して、相手の気持ちを理解する努力が欠かせないのだ。
番組では、ワシントン州立大学の離婚防止のカウンセリングプログラムに密着し、「子育てを成し遂げる関係から、お互いの人生に影響を与え合う関係へ」と変わるなかの男女関係を描く。


[1000] 第3回目
ともやん    ++ ..2009/01/15(木) 08:50
 
性染色体がXXなら女、XYなら男。1億7千万年前に獲得したこの性システムのおかげで私たちは命を脈々と受け継いできた。ところが、この基本そのものであるシステムは、大きく揺らいでいる。じつは男をつくるY染色体は滅びつつあるのだ。専門家は「500万年以内には消滅する確率が高い」という。なかには、来週になって消えても不思議ではないとする意見さえある。
そうした動きの背景にあるのは、いま新たな男女差が次々と見つかっていることだ。特に、脳は性ホルモンなどの影響で男女の違いが意外に大きいことが最近になってはっきりしてきた。
これはY染色体の必然的な運命だという。ほかの染色体は二本ペアになっている。もうひとつの性染色体のX染色体も母親の体内では二本揃っている。こうした場合、片方に欠損があっても、もう一方で補修できる。ところが、Y染色体は誕生以来、ずっと一本のまま、父から息子へと伝えられてきた。欠損を補修する仕組みがないため、長い間にY染色体には欠損が蓄積され、X染色体のじつに14分の1の大きさにまで小さくなってしまっているのだ。
じつは「性染色体をつかって遺伝子できちんとオス・メスを決め、両者がそろって初めて子孫をつくる」というのは、私たちほ乳類が独自に獲得した方法だ。ほかの生物はメスだけで子孫を残せる仕組みを持っている。そのほ乳類独自のシステムが長くほ乳類の繁栄を支えた一方、いよいよその寿命が尽きようとしているのである。
さらに人間の場合、Y染色体を運ぶ精子の劣化も著しい。これは生物学的に一夫一婦が長くなった影響だという。
こうした性システムの危機に私たちはどう対応すべきなのか。自然任せに委ねるのか、あるいは人間の手で介入するのか。いわゆる人類初の試験管ベイビーが生まれてすでに30年、私たちは生殖補助技術をさまざまに開発してきた。そうした技術で将来、解決を図るという選択肢もありえるかもしれない。いずれにせよ、私たちは科学技術によって自然の仕組みを詳しく知ったことで、将来に横たわる危機を予め知る存在となった。それは、同時に自己決定をしなくてはならない生物になったことを意味しているのである。

シリーズ最終回では、生殖技術をめぐる最前線もたどりながら、現在、性の揺らぎが引き起こしているさまざまな影響を追う。


[1001] Re:「女と男」
ともやん    ++ ..2009/01/15(木) 11:03
 
第2回のまとめを平井さんがすごく上手くまとめていました。以下は平井さんのブログのコピーです。

1.命にかかわる違い
心臓の筋肉の中を走る0.3ミリ以下の微小血管の流れが悪くなって心臓発作を起こす。男性の狭心症の場合は、そのほとんどが冠動脈が原因だが、女性の場合は、34%が微小血管に問題があることが分った。
血管を広げる効果のあるエストロゲンが閉経後少なくなるため、微笑血管が原因の狭心症になる可能性が高いと考えられている。

2.脳の違い
米NIHで子供の脳の成長の違いを研究した結果、二つの違いが分った。
(1)海馬(とくに右側) ― 小さい頃は男子のほうが大きいが性ホルモンが多くなる思春期、15歳くらいで逆転し女の子のほうが大きくなる。
(2)偏桃体 ― 男子のほうが、15歳くらいで目だって大きく成長する。
成人男女をMRIで調べると、男のほうが大きい場所、女のほうが大きい場所が10箇所以上あることが分った。

3.脳に関する病気の違い
脳に関する病気の多くも、意外なほど男女差があることが分ってきている。
鬱病にかかるのは13歳を過ぎると女性のほうが多くなる
55歳以降、アルツハイマー病を発症するのは、女性が男性の2倍
自閉症は、男性のほうが2.5倍

4.空間と言葉
男性は空間認識力に優れ、女性は言葉の記憶力に優れていることが実験から明らかになっている。
「女性は地図が読めない」というのは本当か?
宝探しの実験では、指示の仕方に問題があることが分った。
(1)進むべき方角と距離だけを書いた指示だけのとき
・男性は太陽の位置で方角を割り出しほとんど間違えずにゴール
・間違えた回数では、男性2.95回に対し、女性は9.86回
(2)曲がるべき目印を具体的な言葉で記した指示の場合
・女性が間違える回数は2.85回に対し、男性は4.02回
この男女の違いは文明以前の遠い昔の進化と関係している。
地図には女性に有利な情報が書かれていないから、地図を読むのが不利になっているということだ。

5.使う脳の場所
同じ知能テストで同じ成績をとった男女では、使っている脳の場所は全く違っていた。脳が情報を処理するプロセスに男女で違いがあるということだ。同じ結果に達するときでも、女と男ではその経路が違う。
実験に使われた知能テストでは数多くの能力を使った総合力を必要とする。男性は得意とする空間認識力をたくさん使うが、女性は使っていない。問題を解くとき、女性が使っている場所には「ブローカ野」というところが含まれていた。ブローカ野は言葉を話すときに使う場所である。
つまり、男女はそれぞれが得意とする脳を使って同じ知性を獲得していると考えられる。この脳の違いは、狩猟採集生活で男女が役割を分担して食糧を確保する中で培われ、数百年後の現代の我々に受け継がれている。

6.違いを生かす
アメリカで「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法(2002年)」が制定された。学力向上のために、同性による学校やクラスを設置することが認められた。男女別に授業のやり方を変えている。
男子の場合、長時間同じ姿勢でいることが苦手なので教室では自由な姿勢、場所のほうが学習に集中できる。また上下関係の規律をもって誰がボスなのかを意識させるような教え方をする。あえて命令口調で競わせ、やる気を高める。
女子の場合は、上下関係をはっきりさせることを好まない。とくに大切にしているのはペアを組んで作業をさせること。自然と助け合うことのできる女の子に向いているという。男子がいると競争心が強いために、すぐけんかになってしまう。
男女が一緒ではうまくいかない学習法も導入できる。それが男女別クラスのメリットである。男女別授業を取り入れる公立学校が全米で急速に増え、現在500校あまりになっている。女の子と男の子の違いに注目し、それぞれの得意なやり方で学ばせる。そうした新しい模索が広がり始めている。
男女の違いに注目する。そんな動きが企業の間にも広まりつつある。経営コンサルのデロイト社では、男女の違いを意識したアプローチ方法の研修を行い、現場でも実際に活用している。
顧客が男性の場合は、地位の高い上司が参加し、解決策をずばり提案する。しかし女性が顧客のときは、全く違うアプローチが求められる。女性は結論に至るプロセスを大切にするため、できるだけの多くの担当者が一緒に訪問し、いくつかの解決のポイントを説明する。
この男女の違いをお互いに知ることで、より働きやすい職場になり、業績も上がったという。違った目線を取り入れることで組織の強さを増すことができる。

次回は、男を作る染色体が消えようとしている、精子の質も劣化の一途をたどっている・・・男が消える?人類滅亡か?

平井さんの第一回目の要約のコピー
NHKスペシャル「女と男」シリーズの第一回の放送がはじまった。以下はそのメモだ。
こころのメカニズムが少しずつ分かってきた。恋する男と女の脳では同じ場所が活発に働く一方で、愛し合っているのに違う場所が活発に働いていることも分かってきた。こうしたことが女と男のすれ違いを生んでいる。

恋をすると活発になる脳の場所
恋する相手を見たとき、女も男も脳の同じ場所の働きが活発になる。そこは腹側被蓋野と呼ばれる場所で、ドーパミンという神経伝達物質が作られている。人がうれしいと感じたり快感を得るとき大量のドーパミンが放出される。学習効果が働き、また相手を見ておなじ快感を感じたくなる。
恋をすると相手に夢中になり絶えずその人のことを考えるようになる。これこそドーパミンの仕業なのである。集中力が高まり、気力に満ち溢れ、疲れを感じなくなる。電話の前でずっと待ち続けたりするのもそのためなのだ。
恋をしているとき、逆に活動が抑えられている場所も見つかった。篇桃体や頭頂側頭結合部である。それは物事を否定的に捉えたり、批判や判断を行う場所である。恋をすると相手を批判的に見ることができなくなってしまう。恋は盲目のゆえんである。
快感によって相手に夢中にさせるドーパミンの仕業、そして相手に対する否定的な気持ちを押さえ込む仕組み・・・恋はこの二つの働きが連携する脳内のメカニズムによって成り立っている。
ではなぜ恋の脳内メカニズムが備わっているのか?男と女では活発に働く場所が違うことも分かってきた。
男の場合は島皮質の一部が活発に働く。ここは視覚に関係している。男性は、その女性が健康な赤ちゃんを産んでくれるかどうか、それを何百万年もの間、自分の目で見極めなければならなかった。だから視覚を活発に働かすようになったと考えられている。
腰のくびれだと考えられている。研究の結果、男性はウェストとヒップの比率が7:10の女性を好むことが分った。太目の女性を好む男性でも比率は7:10を好むという。世界各地の歴史的な美術作品を調べたら、多くの文化で共通して腰のくびれが描かれ、しかもウェストとヒップの比率も7:10が平均だったという。
女性は赤ちゃんを産む準備が整うにつれ腰が細くなり、閉経とともに太くなることが分っている。つまり、出産適齢期に7:10に近づく。男性は一瞬見ただけで女性を評価できるようにプログラムされている。複数の人から相手を絞るためのメカニズムである。その上で相手が自分に興味を示せば、彼女の笑顔が素敵だなどと分析を深めていくことになる。
女性の場合は、帯状回と呼ばれている場所が活発に働く。記憶と深い関係がある。それも子づくりに関係している。相手がいい父親になってくれるか、見た目では判断できない。だから女性には記憶が頼りになる。相手が何を約束し、それを果たしてくれたのか。正しい相手を選ぶことが大事なのです。
恋をする男と女の脳の違いには、ともに子育てのためにふさわしい相手を探しているという事情が隠されている。子育てこそが、生物として人間が恋愛システムを進化させた理由である。

子育てのための恋愛システム
400万年前に二足歩行を始めた人類は、その構造から産道が小さくなりいわば未熟児のまま赤ちゃんを産んで、母親が付きっ切りで育てないといけなくなった。子育てが大変だから、女と男が協力する。そのために恋愛のシステムが進化したのだと考えられている。
しかし、熱烈な恋もしばらくすると冷めてくることも研究を通して分ってきた。恋の中枢が働くなるのです。「恋は18ヶ月から3年しかもたない」という報告がある。未熟で生まれる赤ちゃんも3〜4歳になると、両親が付きっ切りで世話をする必要がなくなるからではないかと考えられている。

賞味期限付の恋
男と女の絆は、もともとは赤ちゃんの成長が一段落するまでの期間限定なのではないかという。狩猟採集社会では、出産は4年ごとにおきる。恋はこの間だけは保たれる用に進化したのかもしれない。その後カップルは解消され、また別の恋が始まる。こうして遺伝的に多様な子孫を残したのかもしれない。
恋は長続きしない。58カ国の地域のデータでは、離婚は4年がピークだということが分っている。数年経つと醒める恋・・・大昔は良かったかもしれないが、現代社会では大きな障害になっている。夫婦となる目的が子づくりということに限らないし、夫婦として過ごす期間が年々伸びてきているからだ。

夫婦のすれちがい
二組に一組が離婚するアメリカでは、国家予算を使って研究される重要なテーマが「夫婦のすれ違い」がなぜ起こるのかということだ。ワシントン州立大学のジョン・ゴッドマン博士は35年に渡って、夫婦がすれ違う原因を分析してきた心理学者である。3000組の夫婦を分析した結果、すれ違いの最大の理由は、その会話のパターンにあることが分った。

なぜ口ケンカになるのか
日ごろの不満を話し合うだけでケンカに発展する夫婦とそうでない夫婦がいる。そのちがいこそが、夫婦の関係が長続きするかどうかの鍵を握っている。自分の不満や不安を、相手を批判する形で告げると、相手は当然防御に努め、自分の立場を守る。あとはその繰り返しになってしまう。その果てに待っているのは相手を見下す発言である。
これが話し合いであったはずの会話を、不毛な口げんかに変える典型的なパターンである。批判、防御、見下しのパターンが繰り返されると、夫婦はお互いを避けるようになる。これが離婚に至る典型的なパターンだといえる。
口論のときの心拍数をはかると、男の場合上昇して100を越えるが、女の場合は70で落ち着いている。男の場合口論が大きなストレスになる。母乳を与え子育てをする女性は、ホルモンの働きによって気持ちを落ち着かせる能力が高い。たとえストレスを受け心拍数が上昇した場合でも女性のほうが早く下がることが実験でも確かめられている。
一方、狩りが担当の男はつねに怠ることなく警戒心を働かさなければならなかった。このためにちょっとしたきっかけさえあれば心拍数や血圧を上げ、攻撃態勢に入るよう体が適応していった。
夫婦の会話で、妻が夫を批判すると夫は批判を攻撃と受け止め心拍数も上がる。その果てにどういう行動に移るのか?攻撃を受け、身に迫る危険を感じる。それが限界に達して会話を打ち切る。
じつは会話を一方的に打ち切る85%は男性である。理性的な対応ができなくなると衝突を避けるために、本能的に会話を打ち切る。
男性は女性に比べて心拍数は早く上がり、落ち着くのにも時間がかかる。警戒心を維持するために進化した男の特徴を現代でも引きずっている。進化で獲得したこうした違いがすれ違いの原因となっていることが多い。

男女関係を阻む二つの要因
ひとつは男性が女性の気持ちを読み違い、ついつい余計なことをしてしまうことにある。男性は女性に比べて、感情や気持ちを読み取れない。恐れなのか、喜びなのか、一見判断しにくい表情を読み取る実験では、女性のほうが早く、しかも正確に当てることができる。
もうひとつは会話の能力のちがいである。長い進化の歴史の中で、女子たちは部族のほかの女性と行動をともにし、会話を絶やすことはなかった。仲間の絆を深めるための会話では、相手の感情を知ったり自分の感情を伝えることが大切である。
一方、男同士の会話は、刻々と変わる状況にどう対応するのか、問題解決型のものだった。男と女の会話に対する、このちがいが男女のすれ違いを生む最大の理由ではないか。

より良いコミュニケーション
男が上手に会話を続けることが鍵になる。女性に受け入れられる最大の秘訣は、質問をすること。ほとんどの人は質問をしない。いつも主張ばかりしている。質問をすれば、相手は関心を持ってもらえていると感じ、心を開く。だから質問は最も重要なのだ。
男性は社会の厳しい競争を生き抜くために自分を磨いてきた。そのため相手の気持ちを受け止め感情に敏感になるのは容易ではない。しかし、よりよい関係を気づくために自分を変えていかねばならない。それは挑戦なのです。
もっとも大切な質問
「あなたの夢はなんですか?」
「人生で成し遂げたいことはなんですか?」

我々はいま、生きていく意義や人生の目的といった哲学的なレベルのことを一緒に考え、新しい価値観をともに築き上げていく・・・
そんな時代を迎えている。
子供を育てるためにはじまった女と男の恋愛のメカニズム・・・。
しかし長い進化を経て、男女関係は、子孫を残すためのものから、人生をともに過ごすパートナーへと変化してきた。お互いの違いを知り、それを受け入れる努力をする。それが新しいパートナーシップを築く道なのかもしれません


私の書き込みのコピー
平井さんが「女と男」のNHKの番組を見たことのまとめをブログにまとめていらっしゃいました。私は第1回を見なかったのですが、昨日第2回を見ました。
 この中で数百年前に男は狩猟・女は採取の方向性で食料確保したことが、遺伝子的に人間に脳の発達に男女差を作ったことをMRIなどの脳の研究でわかったことが証明されてきているとの報道がなされていた。ただし、この脳の男女差は対立するものではなくてむしろ良い方向に両立させることが大切との話であった。これらのことを前提にアメリカの公教育においても男子クラスと女子クラスを分けて男女差に応じた教育をする動きが効果をあげているとの報道もなされていた。
 私は子どもからunderstandしていて男と女は違うし、手法も変えたほうが良いと考えていた。先人も「男女7歳にして席を同じゆせず」と教えていますしね。

 2年半前にミネルヴァ書房の「発達」という雑誌から「子どもの遊びの援助」との掲載依頼がありました。その中で男の子と女の子の対応の違いを書いたものをここに再掲したいと思います。


男の子と女のこの扱い方(保育園の年中から小学校の3年生くらいまでの)
 最近はなんでも男女同権・男も女もさん付けで呼び、男女混合名簿など同じ扱いをするのが世の風潮であるようです。けれど遊びの現場で保育園の年中児から小学校の三年生の実際の子どもをunderstandしていると男の子と女の子はずいぶん違うことに気づきます。その違いを無視すると子どもをうまく援助できないことが多いものです。男の子と女の子の違いを明らかにし、援助方法を考えてみたいと思います。 
 男の子は一般的に個人的に怒ってもあまり問題はありません。というのは小学校三年生くらいまでの男の子の多くはあまり他人のことを考えていないことが多いからです。『ともやん。ボールを強く蹴らないでちょうだい。』と叱ってもあまり問題はありません。でも女の子に同じことをやったら、『なんで私ばかり叱られるの。チョーむかつく。』と頬を膨らませてうらみに思われることが多くあります。ほめるときも一緒です。男の子に『ともやん。よくゴミを拾ってくれたね。ありがとう』と言っても他の男の子はひがみません。男の子はそんなことは聞こえていないことのほうが多いからです。けれど女の子は幅広くアンテナを伸ばしていますから、『ともこちゃん。よくゴミを拾ってくれたね。ありがとう』といったら、『なんでともこばかりほめられるの。みんなでともこをシカトしよう。』ということになります。叱り方・ほめ方を男の子と女の子とでは変える必要があると私は思います。
 男の子のおやつの時間は三分・女の子は三十分というように、おやつの食べる時間も違います。男の子はおやつを早く食べ終わり、外で遊びたいから、口の中におやつを詰め込んでもぐもぐ言いながらごちそうさまをします。女の子はおやつを食べることが遊びの一つですから、おやつを食べながら三十分以上しゃべりまくります。
 折紙で飛行機を作る時も同様です。男の子はいくつも作ったり、作った飛行機を外に飛ばしに行ったりと忙しいものです。女の子は作った飛行機の色塗りに専念し、うまく色が塗れるともったいなくて飛行機を飛ばさないで飾っておきます。男の子はダンスの練習を好きでないことが多く、十五分位が限度です。でも女の子は三時間でも踊りつづけいます。男の子は一番が好きです。学校から戻ってきてカウンターでサインをするときに一番だと大喜びします。一番になりたくて、子犬のように駆けてセンターに戻ってきます。女の子はサインが一番などということで喜びません。下手に喜ぶと仲間にいじめられることもあります。男の子は靴や服やランドセルをよく間違えて他人のものを持っていきます。女の子のランドセルにはいくつかお人形などがついているから、間違えることは少ないものです。男の子と女の子はこんな風にとても違うと私は感じています。違う以上は援助の方法も変えるべきだと私は考えています。
 私はドッジボールやゲームや活動をするとき、男女一緒のチームを作らないようにしています。小学生時代は保育園時代とは違い、男女が離れたがる時期です。無理に一緒に遊ばせようとするとケンカを始まります。離れたいときは離しておけば良いと思います。男女混合の班を無理して作る必要はないと私は思います。チームは別だがゲームは一緒の方が良いと考えています。男女対抗のドッジボールやフットベースをやったり、工作をやるけれど一緒の場所で同時並行にやるのが良いとの考えです。するとお互いに男の子はどんなものが好きで、女の子はどんなものが好きかを理解しあうことが多いものです。みんなで昼食作りをしたときのことです。女の子八人一組で三グループ、男の子七人一組で三グループを作りました。一人二百円で1グループ千四百円から千六百円持たせ、買い物をして作ることになりました。女の子のグループはジュース・ケーキ・サンドイッチ・果物の組み合わせでしたが、男の子の一グループは焼きそば・一グループはカップラーメン・一グループは炊き込みごはんでした。そして、男の子のグループと女の子のグループが交換して喜んで食べていました。
 こんな風に小学生を男女別々に行動させておくと、たまにてつなぎ鬼などで男女交互に捕まえることとか、フォークダンスで男女交互に手をつながせたりすると、嫌そうなポーズをしますが内心とても喜んでいます。小学生時代の男の子と女の子は無理に一緒のグループにしないで別のグループにするけれど一緒の活動をするというのが、子ども同士の相互理解につながっていくように私は思います。

男の子は本能的に平らな所は走り回り、棒があったら振り回し、高いところに登り、石があったら投げ、カーテンにすがる。これは男の子の本能的なものであり、男の子は思考した結果、このような行動をしているわけではないことを理解してあげることが大切と思っています。
 走ったり、石を投げたり、高いところに登ったりしても「何を考えているの」などというよりは「この場所では走らないこと」と足に行動療法的に教えてあげることが必要であると考えています。

 このように話をするとなかなか理解できないお母さんがいます。「自家用車を運転する時に次の信号を右折するからバックミラーで確認をして方向指示器を右折に上げて中央車線により、ブレーキを踏んで」などと一々考えてやっていたらパニックになるでしょう。ですから脳はオートマチックなのです」と話をして、男の子の行動も不必要な行動をしなくてもよいよいに行動療法的に身体に覚えさせることが必要と話をしています。

子どもの遊びの現場にいる私は今回の「女と男」シリーズは男女別クラスの科学的根拠を示してくれたのでとても嬉しく思いました。
 早速、おやつの時間に男女を別の部屋で食べさせました。おやつはラーメンだったのですが、男の子は5分で食べ終わり、体育館で遊びに行きました。男の子の部屋は10分後には掃除が終わりました。女のこの方はラーメンがゆっくり柔らかくなるまで5分待ち、(男はインスタントラーメンを固いままでも食べ始める)男の子が食べ終わる頃から10分くらい楽しんで食べました。早い女の子が15分くらいに遊びに出て来て、ゆっくりの子どもは30分くらいしゃべりながら食べていました。女の子40人・男の子50人くらいでしたが、それぞれ楽しんでいたようです。
 今後女の子はホットケーキつくり、男の子はアイスクリーム1本といったようなおやつも考えています。男女を同じおやつにしなければならないわけではないと考えるとずいぶんと楽になり、子どもたちも楽しくやれます。ただもちろん男の子でホットケーキを作りたい子もいるし、女の子でアイスを食べてすぐに遊びたい子どももいます。そこらへんはやりたい子どもにはやらせるようにできるシステムを作りたいと考えています。
 私自身は基本的に男女は別に扱うのが男女共生の道と考えてやっていました。それが科学的な根拠が出てきたので、堂々と主張できるのがとても嬉しく思っています。最近のMRI等の発達はとても有意義と思います。

 鼻くそを食べる男の子
 「女と男」のNHKのドキュメンタリーは多くのことを教えてくれた。同時に私が子ども達からunderstand(=下側に立つ=理解する=現象学的に子どもをしっかりと理解する)していたことを再確認することができた。
 私は今まで子どもの遊びの援助の仕方として「「子どもの目線の下からのunderstand」・「体性感覚の活用とスモールステップの手法」・「気分一効果について」・「遊びはルールあるケンカ」・「男の子と女の子の扱い方」・「子ども発する言葉と子どもの本音」・「ロールプレーを取り入れよう」・「身近な自然とのふれあい」などの提案をしてきた。同時に遊びの援助の手法の仕方そのものが男の子と女の子と変えていく必要性を強く感じている。しかしながらジェンダーフリーや男女共生を主張する一部の人たちの短絡的な男女を一緒に行動させよとの世論が強い中で男女別行動を実施することはなかなか公然とやることは難しい情況があった。今回のドキュメンタリーで明らかになった女と男をある場面で分離して教育することがそれぞれの個性と創造性を活発化して男女共生の道を拓くとの考えは画期的であろう。しかもMRI等の科学的根拠に基づいているので主張がしやすい。
 私は早速子の男女分離こそが男女共生へとつながるとの考えを実践していきたいと考えている。そしてその考えを伝え始めた。
 そんな話を教え子にしたら、教え子(お母さん)の男の子のことで「学校から途中であるが席替えをさせて欲しい」との話があった」との話をしてくれた。理由は隣の席の女の子がその男の子が丸めていた鼻くそを食べたのを見て、隣の席には座れないというのである。男である私としてはとうてい女の子どもの心理は理解できない。男は他人が鼻くそを食べたとしても問題はない。自分が食べさせられたわけではないし、男というのは集中していると間違って鼻くそくらいは食べることもある。きっと昔、狩猟時代に鹿やマンモスを追いかけていた頃は塩分補給のために自分の汗も鼻くそも栄養補給の一つにしていたかもしれないしなどと思ったりもする。女というのはおかしいなあと思う。この話を別の教え子(今はお母さん)に話をしたら、「鼻くそを食べるのを見ると、その子どもの存在そのものが鼻くそになってしまって近寄りたくないと感じるのが女の子である」というのである。このように考えてみると時として鼻くそを食べてしまう男の子と女の子を常に一緒においておくことがベストであるとは言いがたい。
 「女の子と言うものは男と違って微妙な生き物だから鼻くそをほじくったりする時は細心の注意をして見つからないようにしなさい」と教えることが必要になるであろう。女の子には「男と言うものは粗野であるが、その粗野の中に良いところもあるから多少のことは目をつぶってあげないといけない。そして鼻くそくらいのことでとやかく言わないで『お願い。この荷物をちょっとこっちに動かして』などとおだててたれば喜んで動くよ」程度にアドバイスすることも必要であろう。
 女の子と男の子の分離政策の第一弾としておやつの時間に女の子を2階に男の子を1階で食べさせてみた。おやつは明星ラーメンの評判ラーメン120円くらいのものであった。一階の男の子50人はこのラーメンをカップに3等分してお湯を注いでおいた。午後4時に食べ始め、3分待つことなく食べ始める子がほとんどで(このラーメンは4分待つのだが)4時5分にはほとんどの男の子が体育遊戯室に遊びに出かけた。4時10分には一階の清掃も終了した。
 2階の女の子45人は3人〜4人が一テーブルに着き、ラーメンをおいてそのラーメンにお湯をいれ、箸を3膳とコレールの皿を二つやってお湯を入れてあげた。同じく4時に始めたが、女の子はきちんと4分から5分ラーメンが柔らかくなるのを待っていた。そしてその間楽しくおしゃべりをしていた。4時5分から楽しみながら食べ、早いグループが4時15分に食べ終わり、ゆっくりした子どもは4時30分まで楽しんで食べていた。
 男の子にはおやつはたんなる空腹を満たすための手段で女の子にはおやつはおしゃべりの遊びの一つである。
 私は女の子の中にも男性性的な子どもが10人に一人くらいはいて、男の子の中にも女性性的な子どもが10人に一人はいると感じている。(この確率は性同一性障害の確率とは関係ない。)だから男の子どもでもおやつをゆっくり食べる子どもがいても良いし、女の子でも外遊びが好きでさっさとおやつを食べたい子どもがいることも確かである。ですから早く食べてしまいたい子どもには個包のおやつを出す。仲良く食べたい子どもには一緒盛りの皿で食べさせたいと思う。その上に私は100人以上の子どもにおやつを食べさせているのだからお互いに一番メリットのある手法で男女別に食べさせることがとても有意義なのである。
 女の子も鼻くそをほじくりながらおやつを食べている男の子の横でおやつを食べるのは嫌だろうし、男の子も目くそ鼻くそのことをいちいち言ってくる女の子の横は嫌なことが多いであろう。そんなことを感じている。
 私の仮説であるが、小学校は女性性的な手法で学校教育が行われているように思う。ですから小学校においては女の子のほうが成績が良い。(私は成績の良い女の子に「男の子は小学生時代は成績が悪くても中学生になると伸びてくるから自分が頭が良いなどと天狗になるな」と言っていた)
 ところが中学校は男性性的手法で授業が行われてくるように思う。とたんに女子が落ちこぼれ男子が伸びてくる。
 だとするならば小学校においても男性性的な手法を活用しての教育を実施して男の子のおちこぼれを少なくしていくことが必要となろう。逆に中学校においては女性性的な授業の手法を開発して女の子のおちこぼれを少なくしていくことが必要である。今のように中途半端な教育をすることで落ちこぼれを作るような教育体制でない手法を見つけることが必要であると考える。もちろん教育の問題は男女の教育方法の手法を変えれば全てが解決するというような簡単なことではなくて、いくつかの糸が多数絡み合って錯綜しているので一本一本できることから地道に解決していくことが大切である。

男性性的な手法・女性性的な手法
男の子と女の子に数学を教えるときの具体的な手法の例で話をしてみたい。
 1/2÷1/8= (2分の1÷8分の1)がいくつになるかについて
 男性性的な考えからすれば
 1/2÷1/8=1/2×8/1÷1/8×8/1=(1/2×8/1)÷(1/8×8/1)
=(1/2×8/1)÷1=1/2×8/1=4
ということになり、両方に同じ数をかけても答えは変わらない。1で割っても答えは変わらない。だから 1/2÷1/8= 1/2×8/1となる。というのはとても簡単で合理的ですっきりしているのです。でもこれでは女性性的な考えの人にはほとんど理解できないのです。なんで割り算を掛け算にしてしまうのかということになります。
 女性性的に考えるとまず丸いケーキを一つ持ってきます。このケーキを半分すると1/2のケーキになります。普通丸いケーキは八等分にカットすることが多いものです。ケーキを8等分したものを1/8のケーキにします。ここで問題となります。
 35÷7=5になりますが、この意味は35ヶの飴玉を1人に7ヶづつ分けたら何人に分けられるでしょう。そうです5人です。35÷7=5という割り算はそういう意味です。それではハーフサイズのケーキがあります。このケーキを1人普通サイズの1/8ずつ分けたら何人が食べることができますか。式は
 1/2÷1/8となりますね。答えはいくつかな。
 との授業をして、実際に家庭科の時間にケーキを作りながらやれば女性性的な人でも理解は可能となります。
 今後、いろいろな授業や課題解決の場面で女性性的な解決の手法と男性性的な解決の手法が開発されてお互いに助け合ってより良いやり方を互いに理解していくことが必要と私は考えています。
 私は平島公園という公園の環境整備と緑と花がいっぱいの公園運営をボランティア活動でやっています。そこでも大型の芝刈り機や草払い機・チェーンソーを使用しての活動は男達がしています。女の人たちは花植えや機械が入らない場所の草抜きをしたり、小さな子どもを抱えた女の人はお茶を出してくれたりしています。足の悪い人は全体を眺めて指示を出してくれます。互いの長所を活かしあいながら活動することが大切と思います。ジェンダーフリーなどとこわ声で主張する人たちは汚くてきつい仕事をしない人に多いように私は感じています。


 実験2 児童センターまでの道のり
 児童センターまでの道のりを東京から来る場合で説明を考えてみました。男の人には「高速道路を新潟西インターチェンジで降ります。新潟西インターチェンジから黒崎インターチェンジの方に500メートル位向ったら黒崎インターチェンジを左折して下りてください。その後200メートルくらい行ったらまた左折をして信号を5本くらいおおよそ2キロメートル直進すると踏切があります。踏み切りを直進して信号を二つ越したら左折をして800メートルくらいのところにありますので、その近くで電話をくれるか聞いてみてください」と教えるでしょう。この話をお母さん達にしたら、「全く理解できない」というのです。そこで手法を変えてみました。
「新潟西インターの料金所を過ぎたら、黒崎インター方向に向ってください。道なりに左へ左へ行くと黒崎インターを下りることができます。黒崎インターを道なりに左に行くと右手前方に高助(JOMO)のガソリンスタンドが見えますので、その信号を左折してください。走っていくとアピタが左にイタリアンレストランが右に見えます。そこをまたまっすぐに走ると右手に蔦谷というレンタルショップがあります。その信号も直進して進んでいくと信号の側に『なか卯』といううどんや牛丼が売っているところがあります。そこの信号も直進し、越後線の踏み切りを超えて行くと旧国道116号線があります。その信号を超えると右手にお菓子やさんや弁当やがあります。それを右に見ながら坂道を下ると右前方にセブンイレブンがありますので、その手前の信号を右折してください。しばらく行くと右手に小さな蜂蜜屋さんと左手に薬局が見えます。その薬局を越えたら右手に大きな診療所と左手に薬局がもう一つ見えますので薬局の手前で左に曲がると診療所の駐車場に入れます。診療所の前のコスモスの絵が描いてある物置のある白い建物が児童センターです。わからなかったら、近くで聞いてください。」と話をしました。お母さん達は「なぜ最初からそのようにわかりやすく言わないのか」と言うのですが、男に説明する時にアピタだのなか卯だのあまり興味のないことは分からないのです。小さな蜂蜜やなどは住んでいても知らない人の方が男には多いのです。問題は右折してから概ね何メートルかが大切なのです。また男の人は機能が問題ですから、物置にきれいにコスモスの絵を描いてあったも気づかない人の方が多いのです。もちろん分かる人がいないわけではないのですが。


女性性的な指導の手法と男性性的な指導の手法
石井芳裕さんが「鼻くそを食べる男の子」について以下のコメントを書いてくださいました。
 小学校は女性的,中学校は男性的な教え方というのは、妙に納得です。
石井の感覚では、小学校・特に低学年では、女性教諭の母性的な力で
学級運営が行われ、学年が上がっていくに従って、男性教諭の父性的な
やり方に変わっていく。そして中学校になると、教科毎に担当が変わると
いう、白黒がはっきりした世界になります。

 まったくその通りと思います。私の感覚からも低学年の男の子は女性性的な教えられ方で注意欠陥傾向などと言われて落ちこぼれ、下手をするとそのまま落ちこぼれ人生となることもあります。女の子は小学校低学年まで優秀なのですが、小学校高学年頃から始まる男性性的な授業についていけなくて落ちこぼれてしまうことが多いようです。これは男の子にとっても女の子にとっても不幸なことです。


 具体的に女性性的な指導の手法と男性性的な指導の手法を明らかにして、不幸な落ちこぼれをなくす必要性を私は感じています。

 第1弾として先に分数や小数の割り算や児童センターまでの道の案内の仕方などを書いてみました。この続きでいくつかの提案をしたいと思います。

 折り紙を作る場合で考えみたいと思います。
 始めて折り紙を折る時に、例えば兜を作るとします。女の子には見本を示して「今日はこんな兜を作ります。作り方は最初、三角に折ります。それを四角になるように上に折りあげます。」というように全習法のやり方を女の子ども達は喜びます。男の子にこうした全習法でやると途中で「これは俺が知っている」と邪魔を入れる子どもが出てきます。このことについては「街場の教育論」の中で内田樹さんが競争原理ばかりの教育の中では「俺知っている」との発言は他の人の学習を阻害する無意識的な行動であると見抜いています。この学習への邪魔が男女一緒のクラスの場合では問題となります。多くの小学校においてこの種の発言で授業妨害が行われていることが多いのです。
 女の子の場合ではなくて男の子の場合で折り紙をする場合の手法は全習法では上手くいきません。男の子は最初から結果の分かっている兜などは折りたくないのです。男の子はもっとドキドキするものでないと楽しくないのです。折り紙の向こうに何があるかわからないようなものが良いのです。また男の子は同じ場所でじっくり折り紙を折るのは苦手です。狩猟をしていた脳は一ヶ所に長くいることは獲物が逃げてしまうし、敵に襲われることもあるでしょう。ですから身体が常に動くことが快感となっています。
そこで「赤と青と黄色の折り紙のどれがいい」と提案して、その後に「その折り紙を三角に折って頭の上に載せて体育館を一周しておいで。「今度はその折り紙を四角に折りあげて股の下を30回通します。「次にその四角を半分だけ上に折りあげて空中に放り上げ、紙を傷めない様に空中でキャッチします」といった分習法のやり方が効果があります・

 今までは私は男性性的な手法を主に用いて折り紙を教えていました。全習法でやるとADHD傾向の子どもの多い私のクラブでは男の子がついてこれないからです。このため女の子に我慢をしてもらっていました。昨日から男の子と女の子を30人くらいづつ2グループにわけ、教えることにしました。職員2人が別々に別々の手法で教えればよいのです。もちろん同じ部屋でやっていますから、男の子で女性性的手法が得意な人はそっちにいけば良いし、反対もありです。こういうケースにおいて男の子の中で「お前は女の方に行った」などと変な茶化しを入れたらきつくきつく叱られることになります。

 折り紙の折り方一つとってもこのように手法は違ってきます。

 次に自然科学館等へいく場合で考えてみましょう。
 女の子には大まかなスケジュールを教え、自分達で大まかな計画を立てさせることが指導の手法として効果があります。「今日は自然科学館へ行きますが、並び方は学年別に並んでください。バスの中では大声を出したり、席を立ったりしないでください。自然科学館ではエスカレーターの逆走は禁止です。自然科学館では外の電気自動車に乗ります。昼食後に午後1時のプラレタリウムをみます。その後にみんなで1時間自由遊びをして午後3時に自然科学館を出発します。児童センターに帰ってくるのは午後3時半頃の予定です。」と話してもほとんどの子どもが理解ができます。
 小学校低学年においてもこうした手法が使われているので男の子はたまったものではありません。男の子には3っつ以上の指示は理解できなくなります。集合する時に「学年別に並べ」バスの中で「バスの中で騒ぐな、窓から手を出すな。席を離れるな」自然科学館で「学年別に集合せよ」エスカレーターの前で「エスカレーターを逆送するな」昼食場所で「ゲームボーイ等は1時間自然科学館を見学しないとやってはいけない」などと分習法的に一つ一つ指示をしたほうが効果があります。

 今後私としては男子と女子に分けて自然科学館へ行こうかと考えています。

 これからいろいろな場面での女性性的な手法と男性性的な手法を提案していきたいと考えています。これを混合してやればよいとの考えもありますが、人間の脳は同時に二つの手法を受け入れないことが多いものです。一つの手法をオートマチックに習得してその後に別の手法も学ぶことも大切ですが、最初から混合でやるとこんがらがって効果がありません。それが今回の「女と男」シリーズで学んだことです。

 女の料理・男の料理
 女の人は男が料理などをしないと批判することがある。そこで自分なりの料理をするとこの料理はなんなのとまた批判をする。それで男は料理をしたくなくなるのである。
 日本の支配階級となった武士の先祖はどうもマタギらしい。これは社会人類学の学者が武士階級の文化(鷹狩り・お茶などなど)から分析したものである。マタギが祖先と仮定すると目上の人がお茶を出してお客様を接待したり、草取り・ゴミ拾いも自分でやることは理解できるし、日本文化のとても大切な部分であろう。
 同様に日本人の男は自分が料理をすることを基本的には厭わないと私は考えている。ただしがつく。マタギ的な考えがある日本の男の料理は会席料理のようなものと違うのではないかと思うのである。ご飯とおかずを一品一品並べるような料理は男の料理に似合わない。マタギとしても武士としてもそして狩猟をしていた先祖から考えてみてもご飯は食器が少なくまとめたものが良いに決まっている。だから男の料理はすべてのものが一緒になったカレーライス・具入りおにぎり・チャーハン・雑炊・サンドイッチ・丼物・ビビンバ・ピロシキ・おやきのようなものが良いと思う。一品の中に野菜・タンパク質・炭水化物などがたくさん入ってそれ一つで全ての栄養がクリアーできるようなものが良いと考えられる。宮中料理のように煌びやかなものよりもそんな料理が良いのである。
 こんな風に考えてみるとお母さん達もお父さんに料理をさせたかったら、小皿をたくさん必要な料理を要求するべきではないと思うのである。ごった煮・コごった集め・ごった炒め的な料理を楽しむことを覚えることが必要となろう。
 こんな風に書くと男でも繊細な料理をするではないか。むしろ男の料理人の方が繊細ではないかと主張する人もいるかもしれない。私もプロとして女の子を教えるときはアマチュアのお母さんよりもはるかに女性性的な手法を活用して上手く教えることができる。今問題としているのは家庭における日常の食事の話であり、レストランの料理の話ではないのである。家庭の普通の食事を考えてみると男にはごった料理が似合う。
 ラーメンは基本的には男の料理の仲間であろう。だから本格的な中華・和食・フランス料理などとは別の領域にあるようだ。ところが最近、ラーメンの世界にも女性向けにラーメンと別に具を小皿に入れていろいろ並べるものが出てきたようだ。男的ラーメンが女性的に変化しているのではなかろうか。
 小学校等における家庭科の料理は女性性的な料理がほとんどである。だとするならば男も楽しんで料理ができるように五目ラーメン・五目チャーハン・具沢山カレー・具沢山雑炊などの男性性的な料理もいろいろ入れたらずいぶんと料理好きな男が増えるのではなかろうか。そして宮廷料理的なものとごった料理の両方を楽しむことができるのではないかと私は思う。


 私の本音
 今回の「女と男」のNHKのシリーズは私にとっては画期的なドキュメンタリーシリーズでした。一つには女性性的脳と男性性的脳のMRIによる科学的な証明をしてくれたことです、 脳の解明が進み、「」付き日和見主義主義者の退路が絶たれたことが私は嬉しく思っています。「」付き日和見主義者はある時は女性性的な反応が正しいと言い、ある時は男性性的なことが正しいと言います。その上に男性性的・女性性的という言い方そのものが間違いでジェンダーフリーとかうまく両立しろと自分はできないことを他人に強制する事です。
 自分にできないことを他人に強制するのは間違いです。そしてある種の主張をすることで自分のみが正しいと言い張ることが私にはおかしいと思います。
 人間の脳は二つのことを同時にやることは難しいようです。つまり私は今、ローマ字打ちでパソコンを打っているのです。この時に私の思考を指が、ほとんど無条件でローマ字で打ってくれているのです。これが突然、日本語のあいうえおのパターンで打とうとすると思考は停止するのです。つまり、どのキーを押したら良いかが分からなくなるのです。このことによって私はローマ字打ちなら思考の思うままに打てるのに、あいうえおで打つとなると自己表現が百倍時間がかかることになります。このことをジェンダーフリーの人たちは気づいていないか、意図的に無視しているように思われます。
 野球でワンストライクツーボールと表現するかツーボールワンストライクと表現するかはどこかでチェンジして改める必要があるのであり、中間的な表現はないでしょう。テレビもデジタルかアナログかの放送があるのであり、その中間はありません。子どもの教育においても男性性的な手法と女性性的な手法は多くの場合に両立していないと私は自分の経験から強く感じています。ちょうどローマ字打ちかひらがな打ちかデジタルかアナログかと同じ程度の違いがあるのです。早急にこのことを調べ上げて同性クラスを作ることによって女の子も男の子も生き生きとした学習ができるようにと強く願っています。
 観念的でドグマ的で評論的な考え方から、目の前の女の子・男の子の姿を素直に受け止め、どのような手法がより良いものになるかを検証していくことが必要である。子ども達の学習を阻害しているものがなんであるかをしっかりと見つめなおすことが必要である。その上で新たな手法を開発していくことが必要である。教条主義に囚われないで新たな試みをして、成功すればそれを取り入れ、上手くいかなかったら違う手法を見つけることが必要である。そのような試みをしなければ日本の子ども達の教育環境は物質的にはよくなっても質的にどんどんと逼塞状況に追い込まれていく。子どもの学力低下・子どもの暴力の増加・教員のノイローゼ・モンスターペアレントの増加・学級崩壊・学校崩壊が続くだろう。
 「女と男」の学習方法の手法だけでもちろん教育問題が解決するわけではない。様々な問題が教育問題の中には絡み合っている。だからこそできることから一つ一つ地道に解決する手法を見つけていくことが今こそ必要と思う。

 社会的参照の能力(女と男)
あかちゃんの能力の中に社会的参照の能力があるといいます。社会的参照能力とは自分が解決できない問題について自分のアタッチメント(愛着)の対象であるお母さん等の顔を見て行動の判断をするというものです。このことは放送大学院の臨床心理学の乳幼児の心理から学びました。
 心理学用語からの以下はコピーです。
社会的参照
社会的参照とは、他者への問い合わせとも言う。乳児期における情動的やり取りは情報としての価値を持っており、1歳前後では、行動決定に迷うような曖昧な状況では、大人の表情を手がかりにして承認を求めた上で行動化するということ。自我発達の初期において、そのような周囲の大人は、一般化された他者と区別され、重要な他者(意味ある他者)と呼ばれているのである。

 具体的な事例ではあかちゃんの机の上においてその前にアクリル板で作った透明の板をおきます。あかちゃんと机とアクリル板の前にお母さんが立っています。あかちゃんは机のところをハイハイしてきますが、アクリル板の前が高さ1メートルほどの視覚的断崖になっているので、そこで止まります。あかちゃんも危ないとのことが分かるのです。でも目の前にお母さんがいます。そこでお母さんの顔を見て、お母さんがニコニコしていれば、アクリル板を渡ってお母さんに近寄るし、お母さんがダメという顔をすればそこに留まるというのです。
 この社会的参照の能力は本能的なものであるとのことです。
 女と男の関係で言えば、女の人は社会的参照能力が強く、男は大人になるに従って社会的参照能力が落ちていくようです。小学生の場合で言えば、授業中にサイレンの音がした場合に、男の子は「なんだろう」と思い、席を立って窓際に本能的に行こうとします。女の子も「なんだろう」と思うのですが、本能的に先生や他の人がどのような行動をするかを見るという社会的参照の能力・本能を発揮しますので、すぐには席を立たないことになります。たぶん狩猟を主としていた男にとって新奇な事態には速やかに反応することが必要とされていたからでしょう。採取を主として女の人には相手は動き回るものではないので、しっかりと見極めることが必要となるのであり、急いで飛びつく必要性がなかったのではないかと思われます。
 ADHD傾向の子どもは圧倒的に男の子が多いようです。統計的には4倍くらいのようです。ADHDはアテンションがデフェクトしているように言われ注意欠陥と訳されていますが、私は子どもの現状をしっかり見てみるとアテンションがハイシシンビテイィ=注意過敏であるように思っています。つまり注意が欠陥していたら、サイレンの音などに反応しないからです。注意過敏であるからこそ多動にもなります。ADHDではなくてAHHDであると私は命名しています。アテンションがハイシシンビティである子どもに対して「今は授業中だから席を立たないで座っていなさい。よく考えて見なさい」などと話をしてもどうしょうもないのです。「周りを見て同じように行動しなさい」とだけ命令すれば良いのです。子どもが「でも先生サイレンの音だから火事かもしれない」と言ったら、「みんなの命は先生がしっかり守るから心配いらないよ。どこが火事かは携帯電話で校長先生が調べているから大丈夫。もしあなたの家の近くとの情報が入ればすぐに校長先生が教えてくれるよ」と話をすればよいのです。(私の場合はすぐに携帯電話で火事案内を聴き、子どもにもそのアナウンスを聞かせてあげます)
  3歳以下の場合はまだ充分に身体を自由に動かすことができません。ですから社会的参照の能力が働いています。ところが自分の身体を自由に動かせるようになれば、社会的参照の能力よりも自ら動き回って事態を確かめる能力が出てくるのは当たり前であると考えられます。とくに男の子はこの傾向を強く持ち始めるようです。ですからAHHD傾向の子どもには男の子が多いと考えられるでしょう。
 こうしたAHHD傾向の子どもに対する現在の小学校低学年の教育は女性性的でじっくりゆっくりとの考え方が主流を占めています。本当はもっと運動療法を取り入れて疲れるまで動き回るように指導すれば、子ども達は必然的に情緒が安定して、じっくりゆっくりと行動することができるようになると私は実験的に確かめています。具体的にはローラースケートや水泳などを取り入れることです。また音楽と体育の組み合わせ・社会と体育などを組み合わせて、身体を動かしながら学習をさせることです。
 女と男の違いの中で社会態参照能力が極めて大きい存在であるのではないかと私は感じています。


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