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  お茶出し・ゴミ捨てについて・トイレ清掃詳細トップ






   

 お茶だしはOLの仕事ではないと言われた時代がありました。男女平等・朝、女の人がお茶を出すのは良くないと言われコーヒーマシーンが一人分を作ってくれたり、自動販売機が設置されました。小学生のトイレ清掃はなくなり、業者委託となっています。大学生はとうに自分の使った教室を清掃しません。この勢いは高校・中学まで落ちてくるかもしれません。用務員も技師となり、ゴミ拾い・草取り・枝の剪定はしないようで、除草剤を撒くのが仕事の範囲とか。


 物の見方を180度転換してみることが必要と私は思います。天が動いているのではなく、地球が動いているというコペルニクス的転換です。(地動説はガリレオ・ガリレイだと思っている人が多いようですが、コペルニクスのほうが最初で、しかもかれは説を曲げなかったので,教会により殺されています)


 コペルニクス的転換でお茶だしを考えるとこうなります。お茶は主人がお客に対するもてなしの文化である。織田信長も豊臣秀吉もお茶会をし、みずからお茶を出しました。ですからお茶を出せる人が当時は最高の教養人だったわけです。このように考えれば、お茶を出すのは実は大事な仕事となるのです。学校でも校長先生が自分でお茶を出してくださるところは良い学校が多いように思います。反対にでんとソファーに座り込んで、あごでお茶だしを命令している人をみると、本人は自分をえらいと思っているようですが、ずいぶん傲慢な人と私は感じます。平成元年に皇太子殿下が私の職場を訪問されたのですが、そのときお茶を出す係りになった人はとても喜んでいました。(話はとんでしまいますが、平成になったから、宮内庁もすぐに改革されたように私には感じられました。私の職場は上履きを使わないで、床の上を靴下のままで遊ぶ場所ですが、宮内庁では『皇太子にも子どもと同じにさせます』とつよく言い、現にそうしました。子どもの遊んでいる様子の説明も標準語で良いとのことでずいぶん私も説明が楽になりました。)話を戻します。まず上司が部下のお客さんにお茶を出してあげることから、コペルニクス的お茶だし文化の転換を図りたいと思うのです。


 ゴミ捨てやトイレ清掃も人間が生きていく基本です。生きていくためには、ゴミをだし、食べ、トイレに行かなくてはいけません。その大事なゴミ捨てやトイレ清掃をしないことは基本がなっていないと言うことになるように私は思います。NHKの朝の連続ドラマ『ほんまもん』で精進料理の修業シーンがありました。厠掃除を命令され、何度もやり直しを命令されます。主人公がプッツンして『何でダメなの』と聞くと『心がこもっていない』と一喝される場面がありました。心がこもっている仕事といない仕事は不思議とわかるものです。せっかくの仕事心をこめてやりたいものです。


 小学校に勤務していた頃の話です。いつも校長先生はランニングシャツ1枚で、玄関の草取り、清掃をしていました。あるとき業者風の背広姿の人が『君。君。校長室はドコだね。』とずいぶんえらそうに聞きました。年上の人に『君。君。』はないと思いました。5分後に放送がかかりました。『校長先生。校長先生。お客様です。校長室へお戻りください。』業者はビックリしたでしょうね。翌日に聞いてみたら、『草取りをする人への態度でその人間の本質が見えてくるものだよ。それに校長と言う仕事は緊急時にすばやく的確な仕事をしなくてはいけない。だから授業をする時間も少ない。ちょっと余裕があるときに環境整備をするのは私の大事な仕事の一つ。』といって笑っていました。この校長先生は大校長と言われた方でした。


 児童館・児童クラブでも一緒と私は思っています。子どもがおもらしをしたときにさっと着替えさせ、トイレをきれいにし、『大丈夫。心配しなくていいよ。着替えようね。』と優しくサポートするのと『小学校1年生になって何をしているの。たれちゃいけないでしょ。』とヒステリックに騒ぐのでは大きな違いあると思います。草取りもゴミ捨ても指導員が心をこめてやっていれば、子どもも手伝いを始めます。そうするとずいぶん散らかさないようになってきます。子ども喫茶では小さな子どもがエプロンをして『いらっしゃいませ。何にいたしましょうか。』『ありがとうございました。』『どうぞごゆっくり』などときちんとできるのは「とてもよいことと思います。


 お茶だし・草取り・ゴミ捨て・トイレ清掃に対する考えのコペルニクス的転換を図る必要を感じています。
                        平成14年5月27日


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