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■失敗を考える  詳細トップ (2012年1月26日)

  

   失敗について 1 PDCAからSPDCA

田中 純一

 PDCA
というのはプラン・ドゥ・チェック・アクションとの考え方である。計画を立てて、実施する。その後チェックをして次のアクションを起こすととの考え方である。PDCAを使うことによって、マンネリ化と失敗をきちんとチェックするとのことで、いろいろな活動に使われるようになった。このことは良いことであろう。しかしながら会計年度に合わせて1年間単位で実施されることが多い。このために、チェックするのが1年後になったりする。するとやってしまったことのマイナス評価は難しいので、『プラス評価』にしてしまうことが多い。結果的に失敗しても反省されることがなく、同じ失敗が繰り返されることが多くなってしまう。学校や自治会や役所仕事などがこうした弊害にあっているように思う。
 予算を組む時に出来るだけ緩やかに作っておいて、臨機応変に出来るようにすることが必要であると私は思う。もう一点はPDCAではなくて、計画をもう少し小刻みにしてSPDCAとするのがよいと思う。スモールステップ・プラン・ドゥ・チェック・アクションを一つの活動の中で3回から4回やって総体としてPDCAとなるのが良いと思うのです。
 PDCAが取り入れられると、計画に時間を費やすことが多くなります。時間を費やしただけ、失敗を恐れ、失敗しても失敗ではないと言ってしまう結果、どんどん失敗が重なってしまうことがある。そこでS PDCAにして、計画段階でそんなに時間と費用をかけないことが大切ではないかと最近、私は思っています。やれることからとりあえずやってみる。やってみて問題や失敗があったら修正するとの考えです。私の仲間で保育園の園長さんが給食費の積算をしていたのですが、大根1本の値段を積算が必要と嘆いていました。大根の値段などその年の出来具合いでまったく違うのにね。給食費は総体として500万円。それを上手く季節の旬に合わせて出してもらうように栄養士さんと調理師さんに分散的リーダーシップを活用してやってもらえばよいのにねと私は細かい積算システムについておかしいなあと思いました。でも最近は役所でも細かい積算でなくてよいようになってきて嬉しく思っています。日本語で詳しい積算や細かい計画に拘ることを『下手な考え休むに似たり』と言いますね。写真は『蓼食う虫も好き好き』のタデをたべるホタルハムシです。

  

失敗について 2 アクションリサーチ

『下手な考え休むに似たり』との日本の諺があります。あまりに計画を緻密にしてその計画に拘ってしまってかえって失敗することが多いものです。と言ってまったく何も考えないで物事をやるわけにもいきません。放送大学の小児看護学の江本リナ(とても可愛い日本赤十字大学の先生)さんの本を読んでいたら、アクションリサーチとの手法が提案されていました。いつものように私流に解説します。子どもの熱が出たら、とりあえず頭を冷やして、気持ち良さそうかを調べる。水分補給をする。体温計で熱を測る。喉が腫れていないか見る。それでもダメなら、お医者さんに連れていく。医師も胸の音を聴いて異常を調べる。熱があるなら解熱剤の処方をする。血液検査や可能性のある検査をするというように、必要なアクションをやってみて、その反応で次のアクションをリサーチするというものです。最初から血液採取・レントゲン撮影をして、結果的に検査が終わったら治っていたとか、もっと悪化していたということでは困るからです。臨床の現場ではPDCA的なことよりも小さなアクションから積み重ねていくことが多いようです。その意味でアクションリサーチとSPDCA(私流の考えで、スモールプラン・ドゥ・チェック・アクションのこと)の考えは一緒かなあと思いました。
 アクションリサーチの考え方の中には、たんに科学的な処方との考えだけではないものがあります。つまりアクションを起こす主体と受ける客体は相互関係にあるとの考えがあるようです。手法だけを真似をしても上手くいかないのは(=失敗するのは)相手と自分の主観的な関係を抜きにして、問題は上手くいかないことが多いからです。ですから同じ行為に同じパターンのマニュアルがあるとは限らないのです。
 教育や医療の現場では物事は個別的・主観的・宇宙的なものが多くあります。科学の知である普遍的・客観的・論理的であることが逆に失敗の要因となることもあると考えることも必要ではないかと私は思っています。
 写真は街路樹の周りの雑草をとり、花を植えている様子です。春にやったら、中学生が30人くらい参加してくれました。評判が悪かったらやめればいいし、良かったら続けようと思っていました。思ったより中学校も生徒さんもよろこんでくれました。それでは秋にもと計画をしたら、倍の参加になりました。思った以上に中学生もボランティアをやる気であることがわかりました。
action research
集団力学の創始者レビンが提唱した研究法。第二次世界大戦中、少数民族集団や食習慣の改善などといった現実的な社会問題の研究に関与していたレビンは、現実の社会のなかに構成される集団を対象として、その集団や成員の改善や向上の実践と、集団過程に関する基礎的な研究とが、研究者とその道の専門家や現場の関係者との協力によって、実践→研究→実践というように表裏一体をなして循環的に進められる必要性と有効性を強調し、これをアクション・リサーチとよんだ。実践的段階で生じた問題は、基礎的研究によってその機制や原理が解明され、基礎的研究による知識や技術は現実社会の場で実践的に試行され、さらにその結果の検討が基礎的研究に還流される。なお、これに現場の当事者の訓練過程も含めて、アクション・トレーニング・リサーチと称することもある。 (yahoo百科事典より)

     

  失敗について 3 失敗を恐れない教育を

 失敗=マイナスと考える考え方のために、失敗をさせないようにとの教育がなされているように感じます。そもそも失敗の繰り返しとその反省から新しいものが生まれてくると考えることが必要と私は思います。ですから、教育の現場でも失敗に拘らないようにすることが必要であると思われます。
 日本は学齢主義です。6歳から12歳は小学生・12歳から15歳は中学生・15歳から18歳は高校生といった拘りが強すぎるのではないかと思います。そのため昔も『15の春を泣かせない』みたいなことが言われて、受験で必ず受かることを前提と考えています。受験も含めて、もっと気楽になるような文化にしていくことも必要ではないかと私は思います。
 受験は置いといても、日ごろの学校の現場でも、もっと、失敗を恐れないようにするのが良いと思います。例えば、ノートを書くときに、間違ったら消しゴムで消さないで、線を引いて上に直すとの考えもあってよいと思います。その方が思考過程を自分自身でチェックすることもできます。
 8年前に元職場に、ブラザー・ベアのアニメーターであるアレックスさんが来て下さって、絵の指導をしてくれました。子どもたちに「簡単で大きい部分から描き始めるのがポイント」「失敗を恐れないで元気に描く」「速くたくさん描いているとうまくなる」などのアドバイスをしてくださいました。 
 私は音痴なのですが、小学生の教員時代に私の教え子達は『先生ほどひどい音痴ではない』ことを自信に元気よく歌っていたので、音楽発表会などでも元気が一番で注目をあびていました。
 失敗ばかりを恐れた教育ばかりしていると教科が酷語・惨数・無理科・捨会・ずがこうさ苦・音が苦・体い苦になってしまうのではないでしょうか。そうならないためにも失敗を大切にする方向性に持っていきたいと私は考えています。

 写真はアレックスさんの描いたブラザー・ベアの絵です。消すことがなく、一本一本の線がのびのびとしています。のびのびが教育や活動には必要と思います。

http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/albem2/buraza.html

    

 失敗について なぜ同じ失敗を繰り返すのか?

 これはとても私にとって重大な問題です。たぶん、いろいろなところである程度自分をセーブしなければならないと思っています。そのセーブが飛んだ時に、失敗をしてしまう。心のバランスを保つために、我慢だけではダメなのですが、その我慢をどのように発散させるかが難しいと感じています。
 『公園には神様がいるよ』とのことを書いたのは一つの提案です。http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/syuhou/kouennnokamsama.html
 同時に毎日、公園のゴミ拾いや犬の糞の始末。不法ゴミ投棄の後片付けをしていると、ストレスが溜まってきます。そのストレスを公園には神様がいて、見ておられると考えることで解消しようと思ったのです。これはこれで一つの手法であるのですが、これだけではなんとなくすっきりしないことも本当はあります。そうしたイライラはどうしても、飲んだり、食べたりで誤魔化しますが、それがまた身体によい訳がないこともあり、失敗へとつながってしまいます。
 失敗を繰り返さない手法を見つけたいものです。良い方法はないものですかね。高い理想を持つのも良いのですが、どうもそれだけではすっきりしないのです。何ででしょうね。
 仏陀は四苦八苦(生・老・病・死・愛惜別離・怨憎会苦おんぞうえく・求不得苦ぐふとくく・五蘊盛苦ごうんじょうく)から人間は逃れられないと自覚することが悟りであると教えてくれています。逃れられない存在であることは自覚できるのですが、悟ることは難しいですね。

  失敗を考える 4 初めての試みと失敗

 物事を最初に行うことは失敗をすることを前提に考えたほうがよい。ちょうど停電の暗闇の中を歩くようなものだ。停電になって見えなくなっても、手探りでゆっくりと自分がどのような状況にあるかを把握することが必要となる。懐中電灯やろうそくがどこにあるかをゆっくりと探すことになる。スモールプランを立て、やってみて(ドゥ)、チェックしてまたアクションを起こすことが必要となる。(SPDCA)失敗が起こる確率がとても高いと自覚しながら、その対処をしつつ、アクションを起こしていかないと物事は一歩も進まない。
 私はコゴミ採りをします。いつもの場所にいけば、ある程度は採れます。でも新しい場所を開拓したくて、藪の中をもぐって探索しています。いつもの場所は仲間に任せて。すると結果的に仲間がたくさん採れて、私の収穫は少ないこともあります。でも上手くいくと新たな所でたくさん見つけることも出来るのです。
 初めての試みは失敗がつきものなのです。子どもにとっての学びは、初めてのことが多いから楽しいし、学ぶ必要性があると考えることが出来るでしょう。予定調和的に、全て上手くいったのでは、感動も学びも楽しさも少なくなるでしょう。ですから、学習においてもつまずきや失敗を前提と考えたらよいと思います。暗闇で行動するときに、無茶苦茶に動くと危険です。先生や指導者は重篤な事態に陥るような危険性を排除しておくことが必要でしょう。『山菜採りなら知らない植物やキノコは食べない』みたいなことです。
 もう一つ大事なことは、物事はいつも主観的個別的宇宙的ですから、知っているつもりのことでも思わぬことが起きるものです。完璧なことなどはありません。子どもに知っていることを教えているつもりでも、そのプロセスで失敗して学ぶこともたくさんあります。
 Teaching is learning.(教えることは学ぶこと)との意味はいつも新しいものの発見が現場にはあり、多少の失敗を前提にして活動することが必要との意味ではないかと私は思っています。

 写真はほんのまぐれで見つけたナラタケの仲間のキノコです。キノコ汁で食べました。

   

   失敗を考える 5 標準化について

 教育行政と学校経営との試験が近づいている。教育行政と学校経営の中でなかなか面白い話があった。
 教育や行政において、ニュー・パブリック・マネージメントとの考え方が欧米で言われたようだ。ようするに教育や行政に市場論理を持ち込むことが必要との考えである。そのためには標準的な評価が必要となる。標準的な評価をもとに標準化をして、標準に対して、どこまで達成できたかを評価の対象とするものである。科学の知=客観的・普遍的・論理的なことを信奉する人たちには受け入れられているが、欧米でも実際の現場では大きな問題を起こしているようだ。
 日本の自然を見ても、新潟のように少しくらい雪が降っても大丈夫な所もあれば、10センチの雪で麻痺するところもある。沖縄のように雪が降らない所もある。標準化しようにも標準化などはなかなか出来ないものが多いものだ。
 学校や放課後児童クラブでも一緒です。100人くらいの子どもしかいないのに、体育館はバレーボールコート2面とれて、グランドも広々した所もある。生徒が1000人以上いるのに体育館は狭く、講演会などでは2回やらないと人が入れない中学校もある。標準化というならば、まず環境を標準にすべきであろう。それをしないで標準化というのは観念論であると私は思う。
 標準化・標準化を言い始めると良さそうであるが、一つの観念の世界の空回りであることが多いので、欧米でも失敗していることが多いという。みんなが平等というのは実は平等ではないことなのではと私は思う。個々は違う。違うを認めた上で助け合って生きるためにはどのようにしたら良いかを考えることが必要である。
 標準化・平均化・みんな一緒との考えは良さそうで失敗の原因になるように思う。みんなが違うを前提に物事を考え直すことが必要ではなかろうか?

 雪のときは水やりをしなくても良いけれど、夏には水やりですね。

 

失敗について 6 チャレンジと失敗(金森重樹さんの言葉より)

   10のうち9失敗して
   1成功する人間のほうが、
   沈思黙考して
   1しか試さない人間よりは、
   よほど成功の確率が高まります。

    10
実行して9失敗する人間は、
   いい方を変えれば、
    100
実行したら、
    10
成功する人間なのです。

最初の試み(=暗闇での第一歩みたいなこと)は失敗の確率が高いでしょう。でもチャレンジしてみないと次の一手は打てないのです。その意味で失敗しないように努力はしますが、失敗も想定において、チャレンジすることがとても大切なことだと思います。失敗を恐れる教育のもとで学ばされてきた子どもは、チャレンジ精神がないように感じます。10回チャレンジして、9回失敗してもいいじゃないかとの気持ちが私も大切と思います。
 マルクスというと共産主義とかコミュニストくらいしか考えない人が多いように思います。マルクスは資本主義をきちんと検証した人であり、また同時に弁証法を発展させた人です。とくに私がいいなあと思うことは『ある程度量が繰り返されると質的な展開を生む』(逆に量をこなさないと質的転換はない)との考えです。新しいことをやるには量をたくさんこなすことが必要なのです。
 子ども達に楽しい折り紙を創作するのが私の趣味の一つです。新しい創作折り紙を作るために1000回以上のチャレンジをして、それでも良いものが作れないでイライラすることがあります。そんな時に、『量をこなさないと質的な展開はない』との言葉はやる気を起こさせてくれます。野球でも3割打者なんかそんなにいないのだから、1割でも大丈夫。もちろん1分でも1厘でも1毛の成功の確率しかなくても頑張らなくちゃ。

写真は鯉車が上手く立つようにするコツを考案した様子です。

http://tomoyanjun.web.fc2.com/taiguruma.html(創作折り紙鯉車)

 失敗について 7 事故らなくてよかった 

昨日、こども自然王国の管理運営会議に行ってきました。会議が終わって、新潟県柏崎市高柳町を出発したのは4時10分くらいでした。概ね20キロの雪道を走り、高速道路に入りました。自宅まで後80キロメートル1時間くらいかなと思いました。ところが柏崎インターチェンジから長岡インターチェンジまでの間に次々に事故が起きていました。
 最初の事故は追突事故で左側車線が使うことが出来ませんでした。
『事故らないようにしなくては』と思いながら運転していたら、また渋滞です。今度は右側線側でスリップして反転したバンと軽自動車が正面衝突でした。2車線の高速道路で同一方向を走っていた車の正面衝突は始めて見ました。
 それからまた2キロメートルくらいのところでトラックに普通乗用車が追突して交通規制となっていました。
 5キロの間で3回の事故で家に帰ってきたのは午後7時になりました。予定は6時前と思っていたのですが、途中で一休みしました。2時間以上の運転は疲れると判断しました。事故はいくら真剣に運転しても可能性はあります。ぜったいに事故らないとのことはありません。無事に帰れてよかったと思いました。

なお、子ども自然王国のある高柳町は私の生まれ故郷でもあるので、出来るだけ実のある提案をしたいと張り切っていきました。普通の委員会みたいなものは形式主義的で1時間半くらいでスムーズに終わることが多いものです。でも指定管理を受けた事業所も真剣で、県児童家庭課、教育庁、小学校校長会代表・中学校校長会、子ども会、こども未来新潟、柏崎市の関係部署の方々も含めて、いろいろな方々が真剣に話をするものですから、2時間の予定があっという間に2時間半が経ってしまいました。帰りは大変でしたが、事故もなく戻れて、子ども達のために内容のある会議で有意義な一日でした。

 写真は春のふきのとうです。大雪が美味しくしてくれるのですが、春が待ち遠しいなあ。