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■花緑理論の展開  詳細トップ (2009年6月8日)






   

   花緑理論へとつながる一連のまとめ

犯罪とは何か

暴力や体罰を考える時に犯罪や非行とは何かを考える必要があると思う。暴力や体罰は犯罪・非行とあるところは一致し、あるところでは違った面を持っているからである。
 犯罪とは何か。社会心理学特論の中で第9章に非行・犯罪の理解がある。

 犯罪とは第一に行動である。意識過程や心的内的過程そのものが犯罪的であるわけではない。問題となるのは心的過程が言語としてあるいは行動として外に顕れたときである。
 第二に犯罪は他者に影響を与える行動・社会的行動としてあることである。そしてその影響が誰かに悪影響・マイナスの影響・困った影響・悩ませる影響・苦しませる影響を与えるものである。
 第三に犯罪は加害者ー被害者関係である。他者に悪影響を与える行為者が加害者で与えられる者が被害者である。犯罪行為は両者の関係で起きるが、その両者は利害を反対方向に持ち、相互に否定しようとする関係である。
 第四に犯罪は当事者以外の第3者・裁定者が存在する。被害者に悪影響を及ぼす全てが犯罪であるわけではない。加害者・被害者と直接関係ない第三者が、これは犯罪であると認定するという異なる要素が加わることとなる。
 
 犯罪には犯行手口がある。犯行手口において加害者が犯罪を実行する場合、発生場面で被害者より優位となる方法をとる。被害者の抵抗を削ぎ、加害者側を優位とする手法は以下の三つとなる。
@加害者と被害者の関係において加害者が物理的力を行使し、犯行を可能とするもので単純で暴力的な手口
A多くの窃盗犯や万引きにみられるように犯行場面を被害者に気づかせないことである。
B詐欺犯に該当するもので加害者を被害者の協力者のように誤解させて被害者の抵抗力を削ぐ。
 以上の三つの手口があるという。
 犯罪とは何かということから考えてみると子どもたちが暴力的な行為や言動をして他人を傷つけた場合に「いったいあなたは何を考えているの」等の叱責は有意義でないと思うのである。というのは叱られるべきは「考えたこと」ではなくて「実行されたこと」だからである。犯罪であれ、暴力的な行為であれ、過失によって他人を傷つけたことであれ、「考えたこと」を叱るのではなくて、「行動されたこと」を叱るべきであろう。
 犯罪は加害者ー被害者関係である。暴力的な衝動をスポーツでうまく発散させれば加害者ー被害者関係にはならない。
 学校や児童館においても犯罪的な行為は存在するわけだから、客観的な第3者の存在をきちんとおくことが必要である。その意味で学校や児童館や児童クラブでは地域のボランティアの受け入れを促進し、閉鎖性を乗り越えることが必要とされる時代に来ているのではないだろうか。
 犯罪の手口から考えた場合、暴力的行為や犯罪・非行(かつあげなど)などが力関係で実行されるならば、力関係において弱者が弱くならないような手法を考えるべきである。例えば暴力を振るう子どもに対して教職員や児童館の職員が一丸となって立ち向かえば暴力的強者は強者ではなくなるであろう。地域のボランティアや保護者が学校や児童館・児童クラブのボランティアとして多数仲間になることも有用である。
 犯罪が窃盗犯的に行われる場合である。児童館とか学校においても他人の物をこっそりと盗むことは多いものである。またみんなの注目をあびたいがために他人の物を隠して楽しんでいる場合もある。こうした場合には監視体制を強くする。部屋の仕切りをなくして全体がみれるようにする。多くの住民が相互に地域の中で見回りをするなどして盗むことができないようにすることである。
 詐欺的な行為については児童館や学校で考えてみると上級生が下級生に安いカードを高いものだと偽って売りつけるなどの行為や社会におけるオレオレ詐欺などもこれに該当する。こうした詐欺行為や詐欺的非行には正しい知識を伝えることが必要である。
 以上のようにみてくると犯罪と非行は似たものであり、対処の仕方も同様であると考えることができるのではないだろうか。
 「体罰」と言われるものの中にも完全に「犯罪」「不当な暴力」であるものもあるだろう。上記の犯罪理論に照らし合わせて検証及び対処をする必要性があると思う。同時に子どものアグレッシブな行動の中にも「不当な暴力性」もある。また万引きや詐欺的な行為も多く存在している。こうした子どもの中にもある犯罪性(もちろん大人にも教員にも児童館職員にもある犯罪性)が行動として顕れないようにするための手法をきちんと考えることが大切なことだと私は考えている。
 ニューヨークで割れ窓理論の考えを活用して環境整備をすることで、治安を守り、犯罪を少なくすることができたという。同じく北海道の薄野でも同様の取り組みがなされて成功したという。
 仮説証明法
 仮説証明法(アブダクション)によれば、演繹法や帰納法だけではいつまでもやまない観念的議論や際限ない実践例を出さなくても仮説を立てて実践し、その成果がある程度証明されたら、活用に価するとの証明法もあることも分かってきた。ちょうど選挙の出口調査などを活用して開票率が10パーセント未満でも当確でるようなものである。もちろん世論調査で政党の支持率を調べるのも似たようなものだ。「学者」の中には観念的な演繹法的展開で他の人を意見を封じ込めたり、逆に現場ではできることのない多数の事例を求めて現場評論をしているだけの有害無益の「学者」も多いものだ。仮説証明法の考えは新しい証明法として有用であると私は思う。
 花緑理論へ
 割れ窓理論はとても正しい理論と思うのですが、私にはまだネガティブのような気がしました。そこで割れ窓理論を発展させて花緑理論を展開してみました。花と緑の環境を作ればその環境を維持するために不断そして普段に水やり、草取り、ゴミ拾いなどの活動が実施される。人々の地域に対する関心が高まり、犯罪が減少する。それだけでなくて除草剤を撒かないのでアトピーが減る。身近な野草が食べることができる。緑が増えてマイナスイオンが多くなり、ヒートアイランド現象も減少する。結果として児童の健全育成となる。というものである。
 私はこの花緑理論を10年前から平島公園で実施してきた。そして6年前から有明児童センターそして有明保育園でもやってみた。その結果、公園や児童センターの利用者が増加し、子どもたちも自然に親しむ機会が多くなった。このことから花緑理論はアブダクション的に有用なものと証明されたように思う。
 花緑理論の展開
 花緑理論をさらに逆転的な発想で考えたのは『児童健全育成は環境整備・安全管理』であるとすることだ。つまり児童厚生員の仕事を子どもの遊びを指導する者との考えから子どもの遊び場環境作りをする者と読み替えることの提案である。子どもは大人の指導によって成長する存在ではなくて子ども同士の切磋琢磨で成長するからである。子ども同士の切磋琢磨を保障することは花緑理論によって環境整備をすることである。4時間の職員は3時間の環境整備をして1時間子どもの相手をする。8時間の職員は3時間の環境整備・2時間の事務仕事・3時間の子ども相手が仕事の内容であると私は考える。3時間の環境整備では誰が子どもの安全管理をするのかという人がいる。子どもと一緒に草取りをすればよいではないか。事務仕事を1時間でこなせるようなシステムを作ることも必要である。
 多重知能理論
 花緑理論の展開の中で放送大学院の発達心理学特論で多重知能理論に出会うことができた。知能は一つではなくて概ね7つのモジュールになっているという。論理ー数学的知能・言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能・個人内的知能・対人的知能である。これらの知能は関連性を持ちながら相互の独立したモジュールであるという。運転をしながら、音楽を聴きながら、他の人と話ができるのはこうした知能がモジュールとして独立しているからだという。逆に一つのモジュールの中では同時に二つのことはやりにくいという。自動車の運転をしながらカーナビを捜査することが難しいことの所以でもあるらしい。
 多重知能理論を活用して対人的知能を核とする児童館運営
 多重知能理論から児童館・児童クラブの活動を対人的知能の発達を核として言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能を同時に活性化することのできる活動を提供することが一番の基本ではないかと考えるようになった。今まで児童館・児童クラブの活動の目的がしぼれきれていないように感じていた。対人的知能を高めることを基本とするとの枠組みをしっかりと確認することが大切ではないかと考えるようになったのである。
多重知能と遊び
 児童館・児童クラブの活動は遊びを主としたものであると言われているが、遊びをどのように定義したらよいであろうか?
 広辞苑によれば
あそび【遊び】
1あそぶこと。なぐさみ。遊戯。源氏物語桐壺「御心につくべき御―をし」
2猟や音楽のなぐさみ。竹取物語「御―などもなかりけり」
3遊興。特に、酒色や賭博をいう。「―好き」「―人」
4あそびめ。うかれめ。遊女。源氏物語澪標「―どものつどひ参れるも」
5仕事や勉強の合い間。「―時間」
6(文学・芸術の理念として) 人生から遊離した美の世界を求めること。
7気持のゆとり、余裕。「名人の芸には―がある」
8〔機〕機械の部分と部分とが密着せず、その間にある程度動きうる余裕のあること。「ハンドルの―」
 上記の中で児童館・児童クラブの遊びは1・2・5・6・7と考えることができるであろうが、こればかりではないように思う。全く別の観点から考えてみることも必要であるのではないかと思うようになった。ここで多重知能理論を活用して遊びを「対人的知能を核として論理ー数学的知能・言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能の一つまたは複数の知能を高めること」と考えることができるのではないかと仮説をしてみた。例えばサッカーは身体ー運動的知能を高める活動である。サッカー部やサッカークラブの活動はサッカー技術の向上を通して身体運動的知能を高めると共に他の知能も関連しながら高めていると考えることができる。児童館・児童クラブにおいてサッカーを取り上げるとすると子ども達の対人的知能を高めることを核として考えてサッカー技術の向上は手法となる。つまりサッカー技術向上のために人間関係が悪化するようなサッカーは児童館で必要がないことになる。正式のサッカーの試合のように11対11とかでなくても良いのである。例えば子ども11人対大人2人の試合もありうるのである。このことで大人はすごいなあとか。子どもも人数が多くなるとけっこうな能力を発揮するものだとかが分かり、対人的知能が高まればよいと考える。
 遊びを考えてみると代表的な鞠つき遊びなどにたどり着く。この場合に鞠つき遊びは言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能などの多数の知能を同時に発達させようとするものが多い。そして同時に必ず対人的知能に関連している。遊びを「対人的知能を核として論理ー数学的知能・言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能の一つまたは複数の知能を高めること」と仮説することはけっこう有意義ではなかろうか。
 最近接領域を探る
 子どもの活動を発展させるためにはヴィゴツキーの最近接領域の考えを活用することとなる。花緑理論を展開して多数の子どもが集まってくると子ども同士の切磋琢磨が生じてくるが、その中で多重知能理論を使って対人的知能の発展を核として複数の知能の発達につながる活動を展開することになる。この時に子どもの遊びをしっかりとunderstandしていると遊びの次の方向性が見えてくるようになる。ヴィゴツキーの最近接領域の考えによれば子ども達の発達は子ども達の抱えている今の能力のちょっと上の能力の展開をすることによって飛躍的に伸びるという。つまりあるがままの子どもではなくてこれから発展していこうとする子どもの方向性を考えながら、ちょっと難しい課題を提供していくことが必要であるという。遊びが子どもの自主性に依拠したものであったとしても職員はあるがままの状態に満足することなく、次の段階を提供することができるようにすることが必要である。
 対人的知能と社会福祉援助技術総論
 花緑理論の展開はたんに花を植えて緑を多くするだけではなくて、多くの展開となる。 児童館・児童クラブの活動(遊びや生活を含めて)を対人的知能を核として他の知能を複合的に取り上げて活動すると仮説を立てた時にどのようなことが考えられるであろうか。
 児童館・児童クラブの活動は社会援助技術の中のソーシャルワーク・グループワーク・ケースワークを実施することとも見ることができる。児童厚生員の研修会で個別援助活動・集団援助活動・地域福祉活動・児童福祉技術援助総論などの科目がある所以でもある。ところが一般的に個別援助活動は個別の問題行動のある子どもをどのように処遇するかとの観点から展開されていることが多い。この結果、専門機関におけるカウンセリングの延長線上の発想があるように思う。また児童クラブにおいては障害児加算制度があるが、せっかくこの制度があっても加算された職員が障害児童に付き添っているケースが多い。
 児童館・児童クラブの活動を対人的知能を高めることを核とすると考えると障害児童も実は子ども同士の切磋琢磨において成長するように働きかけるべきであるから、障害児加算とは障害児児童を見るための加算ではなくて障害児児童を抱えるクラブ等への加算職員と考えることが必要である。したがって児童館・児童クラブにおける個別援助活動は児童館・児童クラブにおける集団援助活動の中で実施するようにすることが一番大切であると考えることが必要である。このことは特別支援学級等における加配職員についても同様に考えるべきであると私は思っている。現実論からいえば、専門機関におけるケースワークではないにも関わらす、専門的知識の有しない加配職員がケースワークの真似事をするために、子どもの自立・自律を損ねて障害児童が2次的障害を起こしていることが多々ある。加配職員がいないほうが健全育成になったりすることもあるかのようだ。
 基本的な考えとして障害児加算は障害児を抱えるクラブ等のグループワーク実施のための加配であるととらえることが必要である。とくに対人的知能を高める児童館・児童クラブにおいてはその考えを取り入れることが必要であると私は思う。
 カオス理論
 カオス理論とはある時決定的な変化が起きる場合があるのですが、その変化は小さな状況の変化が積み重なり、他の状況もいろいろ組み合わさって時にカオス状態になり、あるちょっとした刺激で決定的に変わるというものです。気象の変化や台風の発生などもカオス理論で理解できます。またディアフタートモローのように地球温暖化で南極の氷が大量に海に流れ込み、海流の温度の変化が一気に地球を氷河期にするなどということも科学的な根拠のあることのようです。考えてみると30年前に私が児童センターで3歳未満のための親子で遊びましょうを始めたころは少数派で「児童館は3歳以上が対象でしょう」と批判されたものでした。それが最近では地域子育て支援センター事業が全国で実施されている。同様に花緑理論や多重知能理論・仮説証明法・個別援助と集団援助の併用などといったこともある時にカオス的に流れがこっちにくるのではないかと考えている。そのためにはじっくりゆっくり一つずつ目の前の雑草をとり続けなければならないと感じるこの頃である。カオス理論的にはそういう決定的な瞬間が来ると思うし、また日本人の底力を信じている私としては花と緑を大切にし、地域を大切にし、子どもを愛ししっかり叱る社会になると信じている

花緑理論への展開の道筋
 さいとうさんとの掲示板でのやりとりから「花緑理論」を考えてみました。以下は別の掲示板からのコピーです。

 インターネットのウィキペディアはとても面白いです。ヤフーのニュースとかで見た言葉でわからない言葉とか気になった言葉をウィキペディアで捜すと色々と面白いことが書いてあります。クライスラーの破綻のニュース→クライスラーを調べて→いろいろあってジュリアーニ元NY市長のページにたどり着いたらタイトルの「割れ窓理論」にたどり着きました。私がこどもの職場にいたころに思っていたことがそのまま書いてあるように思いました。ともやんさんの言う、「遊び場環境つくり」というのもこれにあてはまりませんかね?
http://ja.wikipedia.org/wiki/割れ窓理論
 NYはとても治安が悪い都市でしたがジュリアーニ市長が就任してから警察官の数を増やしたり、町の落書きを消したり取り締まったりして町の環境の浄化を一生懸命にやったところ、犯罪率が低下して観光客の数も増えて町に活気を取り戻せたという話でした。
割れた窓を放置してあると、その隣の窓もいつのまにか割られてしまう。そうこうしている内にどんどん他の窓も割られてしまって、町はスラムのようになっていく。割れた窓をすぐに対策しておけばそういったことは起こらない。という理論のようです。ゴミが落ちていれば、さらにゴミを捨てる人が現れるわけで、不法投棄の問題などもこの理論なんだろうと思います。
ともやんさんはもう知っている話ですかね。。

[1014] Re:割れ窓理論ともやん    ++ ..2009/05/04(月) 07:53  
 割れ窓理論を久しぶりに思い出しました。ありがとうございます。
 割れ窓理論とは全くその通りの理論であると私は考えています。犯罪の理論で提唱されているもので、私が遊び場環境つくりの提案の根拠の一つでもあります。犯罪者から見ると割れ窓が何日も放置されていることは人の眼が充分でないことを示している。または住民が自分達の地域に無関心であることを示しているとのことです。一人ひとりの職員がゴミに気がつき、拾い、トイレの汚れを拭き、危険な行為を注意していれば、犯罪行為は減ると考えられます。
 割れ窓理論に対する追加として、花と緑の環境つくりを提案しました。緑を維持するためには毎日の手入れが必要です。手入れをしていれば回りが見えてきます。すると手入れをしている人へ花を植えている人への周りの声かけが始まります。仲間作りが広がり、互いに思いやることができるようになります。また植物は酸素を供給してくれて、都市のヒートアイランド現象を緩めてくれます。
 割れ窓理論はそうした考えの基本となると私は思います。この理論を使って北海道の薄野でも犯罪が減少したと聞いています。監視カメラをたくさんつけることよりも基本的に大切なことかもしれませんね。

[1015] Re:割れ窓理論さいとう    ++ ..2009/05/04(月) 23:27  
やっぱりご存知でしたか。花と緑の環境作りは、割れ窓理論とは対を成すような感じがします。管理的な割れ窓理論に対して、花と緑はなんだか心和む言葉ですね。おかげさまでNPOの駄菓子屋も3ヶ月を過ぎました。この連休中は親子連れがたくさん来てくれています。親の目線で見るとそういった場所がない現代においてとても珍しく感じられるとの声を聞きます。時間を掛けてゆっくりとした歩みで少しずつこういった活動が評価されていけばいいなと思っています。
1年を過ぎたときにどのようなことになっているのか。今はわかりませんが、なんとか維持していけるようにがんばるのが今の私のいる場所のようです。割れ窓理論はもう少し私の考えを入れて、そのうちNPOの掲示板に書いてみようと思っています。そういえば、関係の無い話ですが、夏の行事の日程がほぼ出揃ってきました。7/25 8/22ともに参加可能になりそうです。最終的なお返事はまた後になりますが、今年もめげずに参加します。よろしくお願いします。

[1016] Re:割れ窓理論ともやん    ++ ..2009/05/06(水) 08:03  

 7月・8月に来ていただけるととても嬉しいですね。自家発電はこちらにありますので、運搬しなくても大丈夫と思います。
 掲示板でさいとうさんとやりとりをしていると、考え方が定着を見るように思います。花と緑の環境つくりをとの提案を割れ窓理論の対極として「花緑理論」にしたいと思います。平島公園での花緑活動
  割れ窓理論に対する花緑理論は放送大学院の犯罪心理学で似たような話がありました。犯罪を防ぐためには「犯罪が出来ないように監視を強める」「盗られような物を置かない」「騙されないようにきちんとした知識を伝える」「犯罪を抑止する力を持つ」というものです。
 犯罪を行うには人の見ていないところで盗む(=窃盗罪・空き巣的犯罪)・力関係で奪う(強盗殺人的犯罪)騙して奪う(詐欺的犯罪)の三っつのパターンがあるのだそうです。これらの犯罪を防ぐためには監視カメラ等でで死角をなくし、力関係で不当な暴力を抑止し、確かな知識で詐欺を防ぐことが必要となります。
 
このことを地域の防犯の観点から考えて見ますと、花と緑を地域の住民が増やすことは犯罪を防ぐ監視的効果と地域の連帯が深まり、仲間意識が高まることにより犯罪の暴力よりも地域の力が強くなります。そして情報交換が活発となり、詐欺的犯罪に対処できることになります。また隣保相愛・相互扶助の力が強くなり、要らない物や余ったものなどを援助を必要とする人に提供することが出来ることになります。こうした結果、犯罪的行為に走らなくても助けあって生きることが出来るようになると考えられます。
  その意味で花緑理論は割れ窓理論の対極として効果があるのではないかと私は思います。

バラ園

 初夏から真夏になってきた感じがします。季節とともに花は移り変わっていきます。もうバラも盛りを終わろうとしている感じです。岩室のバラ園に行って来ました。ボランティアで運営しているとか。頭が下がりました。

 バラ園と白い雲と青空が三相になっていました。 最近、木の剪定をしていて気づいたことがあります。一番下の草と中間の木と大きな木を下層・中層・上層に分けます。そして下層に草や木は同じ高さにすることが必要です。写真でいえば手前の芝が下層です。もちろん下層に草花はアカツメクサのように40センチほどの高さで統一されていればそれでよいのです。ただし、2センチほどの芝と5センチほどのマツバギクと40センチのアカツメクサとは共存できません。
 中層の木はバラとか梅とかツツジとかカイヅカイブキの生垣とかになります。中層の木が下層に草花に陽が当たらなくなるようになると下層の草花が死んでしまうので、下層と中層の間には隙間を作って風が通るようにします。
 上層の木は松とかモミジバフウのような街路樹になります。上層の木は中層まで下りてきて中層の木が日陰にならないように剪定をしてやる必要があります。下層・中層・上層の間にそれぞろ隙間を設けて一定の相を作ってやると木はみんな元気になるように思います。そして、見た目もきれいになります。
 そんなことを考えていたら、NHKでスギ花粉症が増えたのは杉林を手入れしなくなったことから杉たちがびっくらして子孫保存のために花粉を撒き散らすようになったとの話がされていました。手入れをされている林とされていない林では5倍も手入れをされていない林が花粉を出すのだそうです。

 やはり木々の手入れは大切と思います。

 きれいなバラ園を維持するためには多くのボランティアの方々の努力があるのだろうなあと思いました。

 今朝のテレビを見ていたら、杉並区で「花咲かせ隊」というボランティア組織を作って公園や路地に花を植える運動をしていたら、空き巣などの犯罪が減少したとのことが報道されていた。これは「割れ窓理論」の実践であり、私の考える「花緑理論」と一緒だなあと思いました。

 植物の葉がなぜ緑色かについて、逆転の発想のホームページを見つけたので紹介したい。

(2010年6月13日追加

 葉が何故緑色をしているかといえば、一般に葉緑素と言われるクロロフィルが含まれているためです。さらに突っ込んで、何故クロロフィルが緑色をしているかというと、それはこの色素が赤と青の部分の光を吸収しているからです。言い換えると、光合成に不要な緑色の光を透過、あるいは反射しているから葉が緑色に見えるのです。植物にとっては緑色の光は不要な光であり、生長や屈曲などに影響を与えない実験をする場合には安全な光ということになります。

 原体験教育研究会ホームページより

http://www.proto-ex.com/gentaiken/gentaikenhome.htm

  人間が緑色が安定するのは、赤や紫色などが人間にとって必ずしも有用な光ではないことかもしれない。赤や紫の外にある紫外線とか赤外線を長く浴びることは人間にとって悪影響を与えていることからもわかる。そう考えるならば、身の回りに植物がたくさんあれば紫外線赤外線を少なくしたり、可視光線の中の赤や紫をカットして、可視光線の中で一番波長が真ん中あたりにある緑が結果的に多くなると考えることもできるでしょう。

赤色は興奮させる要素があり、紫は夜のあやしさみたいな感じがあります。ゆっくりのんびりする時は緑色や青色がいいですね。つまり、植物がたくさんの緑の環境を作れば、無駄な光線は光合成に使用され、安定した光の中で人は暮すことができるようになるとも考えられます。また、マイナスイオンを植物が発生していることも知られています。緑いっぱいの環境を作れば子ども達は安定してくると考えることができる科学的根拠をまた一つ発見したように思いました。



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