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   体性感覚を使って折り鶴を折る

五感から体性感覚へ
 いつも疑問に感じていたことがあった.。はたして五感という考えが正しいのかということだ。

 五感というのは視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚のことである。遊びの現場にいて、同じように子どもに見せ、聞かせ、臭いをかがせ、舐めさえ、触らせても結果は違うものになる。子どもの中には五感とは別に第六感がある。スポーツを教えるときも一緒で感が働くことが大切である。五感・五感というと、指導者の指導力の欠如を子どもが聞いていなかった、見ていなかったのが悪いことに転化する言い訳になっているようにも思えていた。いわゆる『ほおら あなたはいつもしっかり聞いていないでしょ.見ていないでしょ。だからダメなのです。』という声が聞こえてくるようです。

こんな思いをしているとき中村雄二郎著『臨床の知とは何か』にであった。
「すなわち、現代生理学の分類では、人間のすべての感覚は@特殊感覚(視覚・聴覚・臭覚・味覚・平衡感覚)A体性感覚(触覚・圧覚・冷覚・痛覚・運動感覚)B内臓感覚(臓器感覚・内臓痛覚)という三つに分けられている。そしてこの分類は@脳神経連絡の諸感覚A脊髄連絡の諸感覚B内臓連絡の諸感覚という基準によっている。この知見から言えることは、昔からただ<触覚>といわれてきたものは、単に皮膚の接触感覚にとどまらない<体性感覚>に属するものであり、それは同じく体性感覚に属する筋肉感覚や運動感覚と密接に結びついて働く、ということである。

 いいかえれば狭義の触覚も体性感覚のひとつとしてその基礎の上に、筋肉感覚や運動感覚と結びついてはじめて具体的な触覚として働くのである。そして昔から共通感覚とは別に、触覚が五感を統合するといわれてきたが、それは狭い意味での触覚のことではなく、触覚に代表される体性感覚のことだったのである。さらに諸感覚が共通感覚によって統合される時、実は体性感覚が統合のベースになっていたのである。」

 この本に出会い、五感という狭い特殊細胞の持つ特殊感覚のみに依拠した古い指導法を変更するべきではないかと感じた。子どもがダメだからではなく、自分の指導法が間違いでないかと考え直すことが必要と思ったのである。見ていない・聞いていない子どもが悪いのではなく、見てもらえない・聞いてもらえない状況をいかに反省するかである。

 体性感覚の概念はとてもその点ですばらしい概念である。よく「やって見せ、やらせてみせる」ことが大事と体育関係の指導ではいわれるが、それは筋肉感覚・運動感覚・圧覚・冷覚・熱覚・痛覚・触覚つまり体性感覚の総動員をかけることにより、子どもにやり方を感じさせることだということになるのではないかと考える。体育の実技にとどまらないで,詩の朗読や算数の計算、外国語の勉強,理科の実験などなど体性感覚はなんにでも使える。五感という狭い枠を越えて、大きくはばたくのではないかと思うのである。

 私の最初の勤務校は肢体不自由児の障害児学校であった。そこにはよく見えない子ども・よく聞こえない子ども・よくしゃべれない子ども・よく運動できないこどもがいた。その子ども達に私は多くのことを学んだ。大学の教育学部で学んだことの多くは役に立たなかった。今、目の前の子どもに学ぶことが多かった。五感への疑問はその当時より思っていたことであるが、今体性感覚の概念に出会い、それを普及することにより、障害児学校で出会った子ども達に恩返しをしたいと考えている。

 体性感覚の具体的な手法についてはおいおい書いていきたいと思っている。
                                              2002年5月19日


体性感覚を使って折り鶴を折る

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