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  不適応な心的防衛について (2015年1月2日)

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   ヴェイラントの心的防衛2 適応的防衛

 ヴェイラントの縦断的な成人発達の研究は、60年から80年にわたる長期の調査研究だそうです。ハーバード大学出身の人たち、スラム街出身の人たち、教育程度の高い女の人たちの群を研究したとのことです。私自身も自分の生き方に反省をしなくてはならない点が多数あり、学ぶべきことがたくさんありました。老年期になっても適応的防衛をして生きることが大切とのことなので、自分のことを反省しながら、考えてみます。
 心的防衛の中で適応的な防衛は5つあるとヴェイラントは分類しています。(なお太字は生涯発達心理学研究よりの引用である)

@  抑制とは衝動や葛藤に気付くことを、一時的に延期させる働き。怒りとか悲しみの感情に身を任せて衝動的に振る舞うことを一時的に抑える。抑圧と違って、そうした強い感情に気がついていない訳ではなく、また感情を押さえつけたままにしておく訳ではない。
私はやはり感情的に動いてしまいますね。怒りとか嬉しさとかをエネルギーに働くことが多いタイプでした。上手くいかなくなると酒を飲んで憂さを晴らしたり、電話魔になって仲間に迷惑をかけたことが多々ありました。衝動とか葛藤を上手い具合にコントロールすることが必要であったし、これからはとても必要と感じています。一つは運動療法が良いと自分では感じています。上手くいかないときにくよくよしないで、散歩に出るようにとこの1年間はやっています。今までは無理矢理に突破するにはどうしたら良いかを考えていたように思います。そろそろ身体がこのパターンでは悲鳴を上げ始めたように思います。
お酒について、私は自戒することがあります。学生時代にアルバイトをずっとやっていました。夜の12時までバイトをし、35度の梅酒割り焼酎を2杯、同僚のコックさんと飲んでコトンと寝ていました。この飲み方と寝方はずっと習慣になってしまいました。今になって、反省しています。やはり、躾とか習慣とかをきちんとしていくことは大切だなあと今頃思いなおしています。

A  ユーモアとは自分自身にも他者にも不快な思いをさせることなく、強い感情を表現できる方法である。自分をあまりまじめに考えすぎない能力でもある。
ユーモアのセンスは私にはなかったですね。とにかくまじめが良いと思っていました。ユーモアに対するあこがれはありましたが、それを実行するのはなかなか難しいものです。文章などもついつい本音のみを書いてしまいます。文章は情緒的なものが伝わらないので誤解となることが多いものです。また、ブラックユーモア風なことを言って誤解されていました。私の息子が私の職場にいたことがあります。悪いことをしたときにつかまえて、『親の顔が見てみたい』と言いました。いつも親子関係がわからないようにしていたこともありますが、それを聞いていた保護者から『あの言い方は間違いだ。』と指摘されました。
河合隼雄先生の著書で、『真実という劇薬はめったに使ってはいけない。嘘という常備薬は使いすぎると効かなくなる。嘘でも真実でもないことを上手く話すことが大切』と教えられています。このことを知ってから、あまり真面目に考えすぎないことが、楽であることを学びました。
ユーモアのセンスはこれから身につけていきたいと思っています。

B  愛他主義とは自分自身が人から受け取りたいと思っているものを、他者に与えることから喜びを引き出す。
愛他主義は利他的行為とも考えられると思います。私自身は自分中心の利益になることだけを考えるのはあまりよくないと強く思うタイプのようだと自分で思っています。それがある意味ではストレスになっている面もあります。また、自分が他の人からよく見られたいとの気持ちがあるかもしれないとも感じています。そうだとしても、利他的行為は大切だと思っています。地球は回っているから、自分の周囲を汚くすれば、周辺に悪影響を与えると思います。向こう三軒両隣が助け合って愛他主義的でやりたいなあと私自身は思っています。でも、他人が上手いことをやるのをどうしても嫉妬したり、いいなあと思うのは性かもしれませんね。愛他主義は難しい。

C  予期とは近い将来起こることが確実である葛藤に対処の仕方を、少しずつ学習していくこと
誰もがそうなのかもしれませんが、悪いことから眼を背けたいものです。健康診断などからは逃げてしまう。これは失敗につながっています。これからは逃げないようにしなくてはと思っています。傾斜する傾向があるので、受け止めてしまえばそれなりにやるのですが、受け止めるの前の段階を嫌がる傾向が強いかも。私自身のことです。

D  昇華とは否定的な結果を生むこともなく、ひどく喜びを損なうこともなく、葛藤に間接的な解決策を与える。感情を他者に対してむき出しのまま噴出させない。
私がカプラ・折り紙・環境整備・ホームページ作成などに熱中するのは、それらが昇華の役目を果たしているように思う。何かに熱中していれば、嫌なことに反応している暇がなくなる。またやったことが評価されれば嬉しい。 

 自分のことを反省しながら書いてみました。というのは、ヴェイラントの心的防衛は中年から高齢者に移行していくために考える必要があることとして提案されているからです。不適応な心的防衛(投影・幻想・行動化・消極的攻撃・解離・心気症)なども私はたくさんやってきました。また適切な適応的防衛が出来なかったことが多くあります。これからは不適応な防衛を適応的な防衛になるようにと思っています。

 さて以下に、子どもたちとの関係性の中で、適応的な防衛を発展させるための手法を考えてみたいと思います。

@    抑制については、子どもは自ら抑制することが難しい段階でもあるとも考えられます。親や指導者や教員などがある程度コントロールすることも必要です。
盗癖の子どものことです。子どもが上手く物を盗ってくると親が喜んでいました。その子どもは盗癖から逃れるのが難しくなりました。やはり、盗癖の場合にきちんと他者からも抑制することが必要です。保護者が出来なかったり、保護者が盗癖を奨励するようであれば、親子分離が必要となります。また盗癖をコントロールできない保育士・児童厚生員・教職員であれば、職員の配置替えが必要となります。
暴力的衝動も気持ちを理解してあげることも必要ですが、やってはいけないことを抑制出来るように働きかけることも必要となります。子ども自身が抑制できないなら、周囲が上手く抑制のお手伝いをしてあげることも必要となるでしょう。叱ったり、褒めたりの繰り返しの中で、気持ちがコントロール出来るように働きかけることが必要となるように思います。
私自身のことも含めてなのですが、きちんとした抑制が心的防衛のやり方として出来るためには日本人の躾の考え方も大切だと思います。食事習慣で考えてみれば、人類の歴史の中で甘いものを摂ることが出来たのはほんの僅かなこの頃だけです。甘いものを食べたいとのニーズは遺伝子的にあるでしょう。だからといって、チョコレートにジュース・ケーキだけでは身体を壊してしまいます。躾として甘いものを我慢することが普通になることも必要であると思います。躾の必要なことと子ども自身のたんなるニーズを満たすこととは違うし、躾の方が大切です。

A    ユーモアについては小さい時からごっこ遊び等を通じて能力を育みたいと私は思います。ジャンケン遊びの中で『ジャンケンバキューン』との遊びがあります。ジャンケンをして勝つと負けた相手を指ピストルで射殺出来るというものです。負けた方は命乞いをするのですが、勝った方は許さないで殺してしまうものです。射殺された人はオーバーに死にます。こんなじゃんけんの中から、死ぬまねとか殺すまねみたいなことをやって、ジョークを理解できるようになることが必要と私は思います。ADHD傾向の強い子どもは負けて殺されることを極端に嫌がる傾向があります。また勝つとけっこう無慈悲にやります。これらが、遊びの中でユーモアとして理解出来るようになることも必要であると思います。
『あなたのお母さんは美人だから、お菓子をあげるからお母さんを頂戴』などと子どもをかまうこともあります。真面目に考えて『絶対にダメ』という段階から『どうぞどうぞ。いくらでも持っていってください』などとユーモアで返せるような段階になれば、ずいぶんと安定してきます。私自身のことを含めて、ユーモアをもっと使って対処できるようにしたいなあと思っています。相手の気持ちも考えて、ちょっと楽しく話せるようになる能力が欲しいと自分のことを含めて思っています。

B    愛他主義をすぐに子どもたちに実行させることは難しいし、私自身にとっても、とても難しい。とりあえずは、自己中心的な考えから、他人は自分とは違った考え方を持っていることを理解することが大切と思います。小学校3年生くらいから、自分と他人と仲間との区別がだんだんとはっきりしてきます。この時期に自己中心的な活動から集団活動を取り入れて利他的な行動が出来るように働きかけたいと私は思っています。
王様ドッジボールとの遊びがあります。チームで王様を決めて、相手チームの王様を当てたら勝つというものです。自分が生き残っても、王様が当たればチームとして、負けになります。王様を守るために犠牲的精神で活躍する子どもも出てきます。3人組リレーでは、3人の内の誰かが次の3人にタッチすれば、次の3人が全員スタート出来るものです。3人の内の1人が転んでも、転んだ子どもを助ける人がいて、もう1人が襷をつなぐのに全力で走ることも出来ます。仲間での行動がみんなのためになるとのことが子どもたちの利他的行為を多くしていきます。
最近の教育で疑問を感じるのは、子どもたちに清掃をさせないことです。自分の生活をする空間をきれいにするために働くことはとても貴重なことです。子どもに掃除をするのは当然、教職員も掃除をすることになります。教職員が率先してトイレ清掃や草取りをすることが、教育に一番大切なことだと私は思います。また、みんなのために汗を流して働く行為を褒めてあげれば自然と愛他主義の心が芽生えてくるのではないでしょうか。
難しいのは一生懸命働いた時に褒めたりおやつをあげたりすることです。仕事をする何かがもらえるではもらうことが目的になることもあります。そこら辺の按配が難しいと思います。平島公園の緑化活動をしていて、お手伝いのご褒美を何にするかが悩みですね。『みんなの力できれいになって良かったね』でも一つの満足になるようにと思っています。最近では平島公園をきれいにするのが習慣になってきて、私自身もそんなにゴミ拾いが嫌でなくなってきました。遊びに来る大人や子どもたちも気軽にゴミが落ちていれば拾ってくれます。汚いのが気持ちが悪いとの感じにみんながなってきて嬉しく思っています。また、遊んだ後にきれいにするのではなくて、『始める前に美しく』とのスローガンを掲げています。このことで、みんなのために公園をきれいにすることが自分のためにもなることが理解されるようになってきました。

C    予期について。子どもは未来ではなくて、今をしっかりと生きている感じがします。ですから、あまり遠いことを予期させるよりは、明日出来るかもしれないことを提案していく方が良いと思います。この場合の明日出来ることとはポジティブなものになります。ネガティブなものの予期は難しいですね。子どもにも私にもそうですが。少なくても予防注射が痛いけれど必要だから、いっそのことジタバタしないでやってしまおうとか、どう騒いでも試験は受けなければならないのだから、やるだけやって、後は心配しすぎても良くなくなるわけではないから、くよくよしないで違うことに専念しよう。みたいなことが良いのではないかと思っています。大人は自分も含めてもっとしっかり自分を見つめなおして、ネガティブなことも受容することも必要だと私も思います。子どもは子どもの発達段階を考えるとあまりにネガティブなことを考えさせるよりは目そらし方略も必要と思います。子どもがおもちゃの取り合いをしている場合に、『おもちゃが一つしかないから仲良く遊ばなくてはいけない』とクドクド説明するよりは、おもちゃより面白い遊びを提供してあげた方がベターなことの方が多いものです。問題はおもちゃより面白い活動を提供できないお母さんや職員にあるのかもしれません。

D    昇華について。おもちゃの取り合いよりも楽しい活動の提供が上手くいくことがあります。それは葛藤や衝動のエネルギーを別な方向に向かわせることです。スポーツが一番ポピュラーなものかもしれません。嫌なことがあったら、嫌なことばかりに思いを巡らせるのではなくて、そのエネルギーを有用なものに向けることが必要だということです。教師の師は旗を掲げて方向性を示すことです。子どもの持つエネルギーの方向性がなんであるかを共に見つけてやることかもしれません。人間は千差万別ですから、その子どもに何が適正であるかはなかなかわからないものです。ある程度広く浅く、いろいろなことに興味をもっていて、子どもたちの適性を一緒に探してあげる手助けが出来たら良いなあと思います。また自分一人の能力は限界がありますので、やはり仲間がたくさんいて、チームティーチングで助け合ってやるのが良いと思います。この点、日本の小学校は基本が学級とクラス担任で成り立っている閉鎖的集団であることに危惧が私にはあります。児童館や放課後児童クラブは複数担任制ですので、その良さを活かすことが出来るのではないかと考えています。
何か熱中することが出来るものをみんなで助け合って、探しあい、それがみんなのためにもなるようなものに昇華したいなあと思っていますが、なかなか難しいですね。

 日本の子育ての考え方もとても大切と私は思っています。日本では満年齢ではなくて数え年を使っています。正式な数え年は生まれたら、一つです。つまりお腹の中の1年も、1年と数えると思えば良いと思います。数え三つとは3歳未満となります。

 三つ心・六つ躾・九つ言葉・十二文・十五理と言いますが、三つ心とは妊娠してから3歳未満までは愛情深く育てることが必要との考えです。妊娠中に酒とたばこをあまりしない方が三つ心にとって必要と思います。

 六つ躾とは満3歳から満5歳までとのことです。つまり保育園なら年少組から年長組ですが、年長児で満6歳になる子どももいるわけです。保育園や小学校が4月から始まるので、注意が必要ですが、そんなに厳密なものではないでしょう。保育園の年少から基本的な生活習慣の躾は必要です。『やって良いこと、悪いこと。言っていいこと悪いこと。やっていい場所悪い場所。』があることをしっかりと躾けることが必要です。子どもの自主性の尊重と称して、公衆の場所でもわがまま放題をしているのに、許している父母や祖父母の方々を見ていると、大人自身が自己中心であるなあと感じることがあります。小学生入学までに基本的な躾(社会的ルールを守って他人に迷惑をかけない)が確立したいものです。

 九つ言葉とは小学校低学年の内に世辞が言えるくらいにはなっておくことです。世辞とは『人に気にいられるような上手な口ぶり』が出来るとの考えだと思います。何でも真実を言うのが良いとは限らない場合がたくさんあります。時と場合で言葉を使い別けることも必要です。最近では自己中心的な親が増えてきて、他人の子どもを呼び捨てて、自分の子どもにはちゃんをつけるような傾向もあります。ずいぶんとおかしいなあと思います。小学生であっても『母がこう申していました』くらいは言えてもと思います。

 十二文とは小学校4年生以上となってくれば、自分を客観視し、他人の気持ちも推し量れるようになるものです。それを客観的に文にして書くことが出来ることも自分自身を見直す意味で大切です。男の子と女の子では精神年齢が2年は男の子が幼いように思います。私はとても幼かったので、文章を書くようになったのは、小学校6年生くらいからです。文章を書くことが好きになることは大切なことだと思います。読んだり、書いたりが好きになる働きかけを大人は子どもに対してやっていきたいと思います。

 十五理(ことわり)は難しいと思います。中学校に入学し、卒業するまでに自分の人生をどうするか考えることが大切との意味ですが、現代ではモラトリウムの時代になって、中学卒業が高校卒業となり、私などは60歳を過ぎても理はわかりません。生涯学習し続けることかもしれません。

 日本の昔からの『三つ心・六つ躾・九つ言葉・十二文・十五理』のことを持ちだしたのは、適応的な防衛を学ぶために、日本の江戸期からの考えはとても良いと思ったからです。


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