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■人生は誤解・間違い・勘違い・気狂い・失敗であふれている
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 人生は間違い・誤解・勘違い・気狂い(きちがい)と失敗であふれている

(令和元年9月21日)

 人生は間違い・誤解・勘違い・気狂い(きちがい)と失敗であふれている。そうであることを前提に上手く付き合うことが必要であると私は最近感じている。何もしないならば間違い・誤解・勘違いをされて失敗し、気狂い扱いされることもないだろう。しかし何もしなければ何も生まれないのである。

 何時もポジティブに考えることは必要であるが、自分の為すべきことがいつも歓迎されるとは限らない。むしろ守旧派からは嫌われることが多い。(守旧派とはいわゆる保守とか革新のことではない。現状を肯定しつつ変革しようとすることに反対する勢力のことである。)何かを為すことは歓迎されないことが多いことを前提にやることが良いと私は思っている。

 人生を間違い・誤解・勘違い・気狂いと失敗があると考えてみると、それぞれに含蓄のある言葉が日本語の使い方にはある。自治会活動と平島公園整備・児童健全育成について考えてみる。

 間違っているかもしれませんが、私は児童健全育成とは環境整備と思います。

 誤解を恐れずに言えば、論議するひまがあったら、平島公園草取りをする方が子どもの為になると思います。

 勘違いかもしれませんが、自治会活動の基本は自治会環境整備にあると思います。

 気狂いのようですが、週に一回公園の草取りを仲間とやっています。

 失敗の連続ですが、いろいろな植物を植えてみて、暑さ・寒さ・乾燥に強く、手入れを出来るだけしなくても大丈夫なものを探しています。

 といった提案になっている。自分のやり方が絶対に正しいから、みんなに私の方針に賛同して欲しいと強く主張するよりは、上記のように話すことが、私にはベターであると思っている。

  間違いとは何か?
 臨床心理学の学びで知ったことですが、ユングは『星の時間』との提案をしています。 Sternstunde・・星の時間・・というのは心理療法の中の言葉である。運命の一瞬というような大切な時はあるものである。同じコメント同じ問いかけも「時」を逃せばただの意見になるし、その時をつかめば人生の変容にもつながるというものである。いくら正しいことでも適切な間が大事である。間違いとは誤ったことというよりは伝えたり提案したりする間が違っていることではなかろうかと私は思います。ですから今、受け入れられなくてものちに提案して受け入れられることもあるとの考えです。保育園児に掛け算を教えることは間違いですが、小学校2年生で掛け算をやることは大切です。誤解を恐れずに言うならば、ADHD傾向のこどもがサイレンの音を聴いて騒ぐのを強く叱るのは間違いですが、ガラスのコップを投げないように叱責することは必要です。
 三間(さんま)が今のこどもには足りないと言われたことがありました。三間とは時間・空間・仲間の三つの間です。間違いとは発するべき言葉や動くべき行動が時間・空間・間柄を間違ってやってしまうことだと思います。昼間に芝刈り機で草刈りをして50デシベル程度の音を出すことはありえますが、夜にはダメです。時間が違っています。トイレでおしっこはありですが、公道で立ちションベンは違います。仲の良い仲間と悪ふざけはありますが、無関係の人とは出来ません。どんなに正論のように見えても間が違っていれば、間違いです。

  誤解とは何か?
 伝える相手が誤って理解することであると思う。「明日の7時に公園の草取りをしましょう」と話したとする。伝える側は明朝の7時と思って話をしても相手は夕方の7時と誤解するかもしれない。伝える側は草取りをするのは早朝が普通と思い、聴く方には夏の草取りは夕方が良いと思っているかもしれない。午前7時とか午後7時・19時とかと誤解されないように話をすることが必要となる。19時は同時に自分自身が失敗することもある。19時の9時を強く思うので、午後9時と勘違いしていることもある。
 誤解したり、誤解されたりすることは日常的なこと思います。とくに大切な誤解されないように伝えることが必要なので、文章にしたりしますが、それも来年のものをコピペしてやるので、期日や曜日が間違いこともあるものです。誤解を前提にしていくことも大事だと思います。

  勘違いとは何か?
 放送大学の「錯覚の科学」で信州大学教授の菊池聡先生から学んだことである。人間が錯覚する原因を四つにまとめられていた。

「人間は知られざる努力家であり要領の良い節約家」

「自分だけでは決められない。手がかりを『思いやって』世界を作る」

「三次元に思い込み、『世界』を作り出す」

「でも自分は正しい、自信過剰」

 「錯覚の科学」での実験などを自分でもやってみると、ほぼ完ぺきに騙されてしまう自分がいることがわかった。人間はコンピューターのようにすべてを計算して判断しているわけではない。お母さんのおなかの中・そして誕生してからの経験を蓄積して勘働きをして要領よく素早い判断をしているという。私も不登校等の相談を受けることが多い。今までの経験値で「この子どもの場合はスポーツ等をやるのが良いな」などと勘働きをする。でも上手くいくこともあるが勘違いの場合もある。勘違いも前提に仮説を立てることは必要である。アクションしてみて、その結果で仮説が正しいかどうかを確かめる必要があるからだ。アクションリサーチしてみて、正しいかどうかを証明することを仮説証明法(アブダクション)と言い、演繹法・帰納法に並ぶ証明方法でもある。
 自分の経験値で出来るだけ節約して要領よくやろうと人間の脳は活動します。だから勘違いすることはよくあることを前提にして行くことが必要ですね。

  気狂いとは何か?
 ブッダの教えによれば人間は四苦八苦に悩まされて生きているという。仏陀は四苦八苦(生・老・病・死・愛惜別離・怨憎会苦おんぞうえく・求不得苦ぐふとくく・五蘊盛苦ごうんじょうく)から人間は逃れられないと自覚することが悟りであると教えてくれています。
 こうした四苦八苦の中で生きることは難しいことでもあります。ですから気狂い(気が狂うこと)は誰にでもありうることであると考えられます。気狂いと思われる行動があることもこれまた真実であると思います。とくに四苦八苦の中の怨憎会苦(おんぞうえく)は会いたくないものに合わねばならない苦しみのことだそうです。これが人生の中でかなり重要な要素になると私には思われます。誰とでも仲良くしようとの提案よりも、嫌いな人とは程よい距離を保つ提案の方がベターかと私には思われます。

 失敗とは何か?
 失うと敗けるですので損をしたり、被害を被ったりすることのようです。けれど、同時に失敗は成功の母とか成功の基とかいうように、失敗がないと新しいことを切り開くことは出来ません。同じ失敗を同じように繰り返さないようにするけれど失敗こそが大切と思います。失敗を恐れさせえない教育が必要と思います。

  

 上の写真は15年以上前にブラザー・ベアのアニメーターであるアレックスさんが来て下さって、絵の指導をしてくれたものです。子どもたちに「簡単で大きい部分から描き始めるのがポイント」「失敗を恐れないで元気に描く」「速くたくさん描いているとうまくなる」などのアドバイスをしてくださいました。

 セレンディピティ的発見というのが科学者の中にあるそうです。何百万回の実験の失敗の繰り返しの中に偶然で予期せぬ発見があることをいうそうです

 以下は引用です。

 1967(昭和42)年のことである。ノーベル賞を受賞した白川教授の話である。ポリアセチレンを合成する実験に挑んだ外国人研究生が「失敗しました」と報告に来た。見ると、溶液表面にぼろぞうきんのような膜が張っていた。よく調べると膜状になったポリアセチレンそのもので、金属光沢もあった。原因は研究生がメモを間違え1000倍濃い触媒で反応させたためらしいが、白川さんはそのぼろぞうきんを見て、「しめた。電気が通るかもしれない」と思った。「僕があの当時やってたのは、触媒を使ってポリアセチレンができる反応のメカニズムを調べる研究だった。たまたまその途中、ある間違いでフィルムができた。普通だったら間違いとして捨ててしまうのだけれど、僕はそのフィルムに興味を持った。そこでいろんなフィルムを作って物性を測定して、もともとの目的は達成されたけれど、それに付随して、電気が通るかもしれないという研究も始まって、それが花開いた。つまり、目的とすることではないことで大発明、大発見をする、そのことをセレンディピティーと言うんです」「偶然に出会った人が旺盛な好奇心や深い認知力と洞察力などに富んでいる」場合のセレンディピティーの実例が、そこにあった。

■割りばしの法則とセレンディピティの法則

 ■失敗を考える

 失敗を恐れないでチャレンジし、アクションリサーチしていく努力を続けたいものだ。そして間違い・誤解・勘違いがあり、気狂いと思われることもありうると思って失敗に学びながら、活動していくのが楽しいかなと思い、提案してみた。


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