tomoyanの遊びを考える HOMEへ戻る
 

 2014年に考えたこと (2014年12月22日) 

詳細トップ






 
 2014年に考えたことをまとめてみました。順不同ですが、一応わかりやすくするためにナンバーをうちました。私の考えなので、不可解なことも多いです。もし目にふれた場合に関心のないところは飛ばして読んでください。なおご意見等はFBかメールでどうぞ。tomoyanjunyahooのアドレスで待っています。

 1 いつの間にかの論理のすり替え

 2 子どもの発達段階の考慮

3 インフレと消費税のこと

4 和語と漢字

5 新自由主義&共産主義から互譲互助へ

6 バリアーフリーをやめてユニバーサルデザインへ

7 自然との共生

8 自治会活動

9 マスコミの常識と現実の食い違い

10 江戸と明治

11 原則的な自由主義(リベラリズム)の考えを

12 今を生きる

    2014年に考えたこと1 いつの間にかの論理のすり替え

 今から45年以上前、私の高校生時代はアメリカ軍による、ベトナム戦争がありました。高校生時代は、戦争反対の反戦闘争が当然、正義と私は思いました。反戦闘争を突き詰めていくと、アメリカが悪い→反米闘争→反帝国主義闘争→南ベトナム解放戦線支援→革命闘争支援→革命戦争支援となっていきました。
 問題なのは反戦から始まっていつの間にか革命戦争支持になっていったことです。私はその真っ只中にいましたが、途中からどうもおかしいのではないかと思っていました。原点が戦争反対なのに、戦争を終わらせるための革命戦争支持→武装闘争までにエスカレートしていくことです。突き詰めないと気が済まない私ですので、いろいろな経験をしましたが、結論的に言えば私には戦争や不当な暴力行為はどうも納得できないことでした。
 その後、わかってきたことはアメリカも悪かったけれど、裏で北ベトナムや中国も悪いことをやっていたようです。ベトナム戦争終了後、南ベトナム解放戦線は北ベトナム労働党に乗っ取られてしまうし、統一されたベトナムも中国共産党と戦争をすることになります。論理的なすり替えはよくあることです。
  尊王攘夷から開国文明開化へ
 明治維新も考えてみると論理的にはおかしなことです。始まりは江戸幕府が外国に譲歩するので、攘夷論(日本においては、幕末期に広まった考えで、夷人(外国人)をしりぞける。つまり外国人を実力行使で排斥しようという思想。)から始まって、夷敵を打ち払いとの論が大きくなります。しかし幕府は外国に弱腰。それではと言うことで、尊王の思想が攘夷論の背景として出てきます。しかし、外国と闘ってみるとなかなか手ごわい。そこで、尊王論だけが残り、討幕をして開国へと突き進むのが明治維新でもあるようです。攘夷論から始まり、文明開化となるのは、理論的に矛盾しているのではないでしょうか?
 反戦闘争・尊王攘夷論などのことを書いたのは、昔のことを考えるためではありません。今の時代でもこのような論理のすり替えによって、若者を惹きつけておいて、別のことをやろうとすることがあるからです。

  子どもの権利主張から子どもの暴力の放任
 子どもの権利を守ることは誰でも反対は出来ないことです。これを拡大していくと、犯罪を犯した子どもの権利も当然守ることが必要となります。ところがあまりに犯罪的行為をする子どもの権利を(大人も一緒だが)守ろうとすると、逆に犯罪から被害者の権利が踏みにじられてしまいます。体罰の禁止などと言われてばかりいるので、不当な暴力を振るう子どもが闊歩していることもあるのです。
 放課後児童クラブでのことです。危険な行為を制止しようと手を強く抑えたら、跡がついたとのクレームがあったとの話もあります。私自身の経験です。思い切ってケンカ相手の手を歯で噛んだので、噛んだ顔を少し叩いたら、体罰と噛んだ子どもの保護者に訴えられそうになりました。その保護者はきっと噛まれたのなら当然訴えたでしょう。噛んだ痕は全治2週間、叩かれた顔は診断書が出るようなものではありませんでした。
 権利は基本的にRightです。正しいとの英語の語源でもあります。一般的に権利があるのではなくて、正しいことかどうかが問題となります。人は生きる権利があります。ですから他人に不当に殺害されることのない権利があります。これは同時に他人を殺害する権利はないということです。不当に他人を殺害したり、危害を加えたり、財産や名誉を傷つけることは犯罪です。こうした犯罪行為を阻止する体制が必要です。
 権利をrightと考えないと論理的なすり替えがおきて、いつの間にか犯罪者の権利を擁護し、被害者の権利をはく奪することにもなります。子どもの不当な暴力で子どもたちが傷つけられたり、教員がノイローゼになってきている時代をどのようにしたらよいかと思います。
   論理のすり替えに負けないための手法
 論理は純粋化してわかりやすくしたものでしかない。現実はいくつかの論理が多重に組み合わさっていて複雑である。カオス的である。同時に表面的に一つの論理が物事を動かしているかのように見えることもある。これに騙されないことが必要と思う。

 物事は状況環境依存的であるから、現実の状況や環境の中で何が適切かを判断するしかない。今まさに子どもの生命が不当な侵入者によって傷つけられようとしているなら、近くにある棒で侵入者を叩いて阻止することも必要であろう。いつも現場主義で何をしなければならないかを現場で考えることが必要であると思う。現場をみないで評論する立場に立つ人が一番危険ではないかと私は思う。
 自衛隊のこと
 戦争反対→軍隊反対→自衛隊反対との論理もある。しかしながら現実的に自衛隊は存在する。状況環境依存的に考えれば、自衛隊をせっかくの国費を使って運営しているのだから、大地震などのために役立ってもらうように考えることが必要であると私は思う。
 東日本大震災の時に東松島市に応援に行ったり、中越地震で小千谷市へ出かけたりして感じたことは、自己完結型の組織はやはりすごいと思ったことだ。自己完結型とは活動・食事・宿泊・物資輸送などが他の組織に依存していないことである。私は高校時代、山岳部だったけれど、基本的には山岳部は山小屋などを使わないで、テント・自炊などの自己完結型であった。
 自己完結型の組織も必要であるし、自衛隊はそうした組織であるから、上手い連携をすることが必要であると考える。
 第2次世界大戦の旧日本軍の間違いから、全ての日本の軍隊は悪い軍隊だったとか、軍隊そのものの存在が悪だとかとしてしまうのは短絡的な発想ではないだろうか?

   2014年に考えたこと2 子どもの発達段階の考慮

 子どもは弱い存在・子どもの権利擁護・子どもの未来を大切にするなどの主張で、オール子どもと見てしまわれることがある。しかしながら、子どもには発達段階があり、それぞれの発達段階で全く違う対応になることもある。一般的に日本人は3歳未満の子どもの発達段階を基準にして、当てはめているのではないかと思われる。これが2014年に考えたことだ。
 3歳未満の子どもはとても可愛くて、無邪気で(邪気がない)、純真で、白目もきれいである。これが子どもだと決めつけて、こうした子どもを守らねばならないと主張すると誰も反対が出来なくなるような傾向になってしまう。私は保育士養成の専門学校の非常勤講師をしているが、学生さんたちは基本的に3歳未満児の子どもの対応が正しいと教えられているように思う。

 3歳未満児まではたしかに可愛いし、純真で、無邪気である。2歳児の平均体重は12
kgくらいで身長は80p位だという。この位なら大人なら軽くだっこできる。走るのもそれほど速くないから捕まえることもできる。(なんで2歳をとりあげたかというと、日本の三つ心とは数えで三つなので満2歳は三つだからである。)これに対して5歳児の平均は19s・110pとなる。(5歳は数え六つである)この頃になると走れるようになるし、体重も重くなる。また嘘もつけるようになってきます。ですから、可愛いだけでは相手が出来ないことになります。
 日本では三つ心六つ躾と言って、数え三つまでは愛情深く育てることが必要で、数え六つまでに基本的な躾をしなければならないと教えています。つまり未満児と年少・年中では対応が違うことになります。私の家に2歳10ヶ月から泊りに来ているちいちゃんが年少児クラスになった時のことです。3歳になり(四つになり)一人で泊りに来ました。連れ合いと一緒に回転すしを食べに行きました。『子ども用の椅子を借りようか?』と話をしたら、『ちいは大人ですから』と断られました。寿司を食べるので『スプーンは?』と聞いたら『大人ですから割り箸を使います』と言われました。そのわりには寿司の卵焼きを床に落として困っていましたが。
 三つを過ぎたら(満3歳になったら)、基本的な躾の必要があります。他人に迷惑をかけない、汚い言葉を使わない、清潔の習慣、衣服の着脱、食事を自分で着るなど自分のことを自分で出来るようにするなどが必要です。基本的な躾は可愛いだけでは出来るものではありません。時に叱ることも必要になります。自主性だけに依拠するだけでもダメです。集団の中でルールを守って、活動できることも必要となるのです。基本的な躾を満3歳から5歳の間にしっかりとすることが大切となります。最近、こうしたことが疎かにされすぎていると私は思います。保育の現場でも自己中心で利己主義、他人の迷惑を顧みない子どもが増えています。ダウン症の子どもは一般的に素直だと言われますが、ダウン症の子どもも社会情勢の中でわがままが過ぎる傾向にあるように私は感じています。
 三つ心・六つ躾・九つ言葉・十二文と日本では言われています。ピアジェの乳幼児期の感覚運動期・幼児期の前操作期・児童期の具体的操作期・青年期の形式的操作期と日本の昔からの考えがちょうど対応しています。満6歳は七つですから、小学校低学年の時期はきちんとした言葉づかいを教える必要があります。それは具体的操作期の子どもたちは簡単にだまされることがなくなり、代わりに嘘も上手くなるからです。基本的にしっかりした国語を教えて、やっていけないこと言っていけないことをしっかりと訓練する必要性があります。何でも思ったことを自由に表現するのが正しいみたいな言い方はずいぶんと問題があると思います。私も小学2年生くらいに『なんではげているの?』とか直に言われたことがあります。また同僚が嘆いていたのですが、5年生くらいの子どもが『あなたも初老だね』とうそぶいたと言うのです。基本的なことばづかいも出来ないで、学力だけ高いことを求めるのはおかしいのではと私は思います。やはり謙虚な気持ちがある意味では確かな学力につながると私は思います。
 乳児・未満児・幼児・小学校低学年・小学校高学年・中学生では発達段階的に明らかなる相違があります。当然扱い方も違います。発達段階に応じた対応が今、必要とされていると私は思います。

   具体例で考えてみると だまし帆かけ船より
 折り紙遊びでだまし帆かけ船があります。帆を子どもに持たせておいて、眼を瞑らせ、その間に折り紙を動かして帆を持っていたはずなのに、船首に変わっていて、船首が帆になるものです。
 感覚運動期である2歳くらいまでは、折り紙の帆かけ船をやっても、ぐちゃぐちゃにしてしまいます。その発展段階だからです。ぐちゃぐちゃにされるのを前提にして、あげるようにします。

 3歳くらいからの前操作期の子どもは最初のイメージがきちんと脳の中に保存されていないことがあるので、とても不思議に思って喜んでくれます。一番だまし帆かけ船遊びが面白い時期であると思います。
 具体的操作期である小学校低学年になると、ちょっとびっくりしますが、最初のイメージが残っていますから、『相手が何かやったな』と気づき、その原因を理解しようとします。また、自分がだまし帆かけ船を相手にやらせようとします。
 これをもう一ひねりするために帆と船首の色を変えたものを作りました。これでイメージを鮮明にすることが出来ました。同時に同じ折り紙なのに、船尾の色が変わって、帆と船首はそのままのパターンのものを作ることが出来ました。こうなると、具体的操作期から形式的操作期の段階に進むことも必要となります。小学校高学年になるとこのパターンがどうなっているかを理解できるようになります。
   子どもの発達段階 泊りに来ないか?
 平島公園で出会った子どもに『このお菓子あげるから、今度、私っちに泊まりに来ないか?』と声をかけた時の反応で、その子の発達段階がわかることがあります。3歳未満の子どもは何を言っているかわからなく、とりあえずお菓子が欲しくて『うん』と言うことがあります。3歳以上になるとお菓子は欲しいが泊まりたくないとのことから『嫌だ』とのことが多いでしょう。年長児くらいからは相手の気持ちも読めるようになるので、嘘返事で『お菓子いただきます』と出来ることもあります。もちろんその子どもの性格等にもよりますが、一般的にそんな感じがします。これは発達段階によるものと考えることが出来るのではないかと思います。
 なお私が子どもに話しかけるときはいつも本気の要素を残しておきます。もし本人が本当に泊りに来るというのなら、保護者の承認を得て、実際に泊めます。2歳10ヶ月・保育園年少・小学低学年・小学高学年などが実際に泊まりに来ました。子どもとの対応は本気がないと上手くいかないものです。 

    2014年に考えたこと3 インフレと消費税のこと

 私自身の年金は少しですが、現在のお年寄りはけっこうの年金を貰っています。このままデフレが続けば、高齢者が金持ち状況で、若者が貧乏との世代間格差が顕著となるでしょう。しかも若者は実際に労働していても、年金よりも少ないお金しかもらえません。これには無理が出ると思います。
 みんなはっきりとは言わないけれど、本音をもらしてしまえば、世代間格差解消のためのインフレと消費税ではないかと思います。ですから、私のように少ない年金生活者は直撃となりますが、それは仕方ないことだと私は思います。
 インフレをある程度やって、若者の賃金を上げるようにして、消費税でなんとか年金制度を維持することは必要と思います。もちろん基本的な食に関するものには軽減税率を適用すべきとの考えには賛成です。 

   2014年に考えたこと4 和語と漢字

 日本語と日本人であることは大きな関連性があると私は思います。しっかりした日本語教育がなされるべきだと思います。
 日本に漢字が導入されたのは、5世紀辺りらしいですが、それ以前に日本人は日本語を使っていたことはたしかでしょう。日本の漢字導入の素晴らしさは、漢字を導入したけれど、日本語は捨てなかったことでしょう。また記録も漢文で記録しても中国語で読むのではなくて折り返し点を付けたりして、訓読みにしていたことです。
 漢字で表現していても基本的な和語があり、それに意味が似た漢字を当てはめて訓読みにしています。当然、中国語の漢字の意味と日本語の訓読み(和語)とは違いが生じてきます。この違いを考えることが必要であると私は思っています。
 動く・働く・学ぶ・遊ぶについて

 和語としての『うごく』があり、動(ドウ)の漢字が当てはめられたでしょう。でも『うごく』はかなり大きな概念でいろいろなことが『うごく』になります。

 『はたらく』は和語としては面白い概念でお金を稼ぐとかの意味はないのです。基本的には作用するとか、人のために動く(ボランティア的)、傍を楽にするとの概念のようです。中国と日本の文化は違います、中国には人のために動くとの概念を漢字にしたものがなかったようです。そこで日本人が人と動くをあわせて働くとの国字を作ったものです。
 『まなぶ』は『まねぶ』『まねる』の和語があり、漢字としては建物の中に子どもがいる学の字があてられました。和語としての『まなぶ』は基本的に『まねる』から来ているので、真摯に繰り返し真似をしていくことが必要となります。これはミナーシスの考えとも共通しています。(ミメーシスとは西洋哲学の概念の一つ。直訳すれば模倣という意味であり、これはプラトンの提唱した自然界の個物はイデアの模造であるというティマイオスという概念からの由来である。アリストテレスがこの概念を受け継ぎ、ミメーシスこそが人間の本来の心であり、諸芸術の様式となっているとした。)まなぶはまねる、そしてミナーシスと考えれば、大ふざけをして授業を受けるなどとのことはあり得ないのです。繰り返し模倣することの大切さを教えない学習は間違っていると私は思います。 『あそぶ』は楽しむ、使わないでいる的な意味から、漢字の『遊』があてられています。『あそぶ』ときは、あまり型にはめないで、余裕をもって動いたり、楽しむ要素がひつようとなります。
 大きくいって『うごく』との活動があり、その中に『はたらく』『まなぶ』『あそぶ』があり、それぞれがメリハリをつけながら、やっていくのが日本人的にあっているのではないかと私は和語的に考えて思い始めています。英語のように『WorklearnPlay』または中国語のように『工作的・学?的・玩』が分断されている考えとは違うようです。
 日本人の考えでは釣りは『WorklearnPlay』でもありますが、欧米ではほとんどPlayとなっているのではないかと思います。キャッチ&リリースみたいな考えは古来の日本の釣りにはなかったことでしょう。
   和語の特徴 とるについて
 基本的な和語は語彙数が少ないようだ。結果的に一つのことばの中にいろいろな意味を包含している。漢字で表すことによって、分類・分析されることになる。たとえば『とる』を漢字で書けば、取る・獲る・摂る・採る・執る・撮る・録る・盗る・捕るなどいろいろな表現が出来る。たしかに分類分析は出来るが、本能的な『とる』全部を表現することは難しくなる。人の中には『とる』との本能があり、捕獲や採取などの本能が満足させられないと安易な盗るに走ってしまうことが多い。このように考えると『とる』は深い意味があるよう思う。
 私の故郷の下田郷では畑の野菜などを欲しい時は『このキュウリ盗んでもいいですか?』と訊くことがある。本来的には『このキュウリとってもよいですか?』になるのですが、『とっていいか』と訊かれて断りにくい。そこで『このキュウリ盗ってもいいですか』が転じて『このキュウリ盗んでいいですか』となったのではないかと私は思っている。この問いに対する答えは『いくらでも盗んでいってください』or『そのキュウリは種をとるのに使うので盗らないでください。代わりにナスならいくらでも盗っていってね』となる。 

     2014年に考えたこと5 新自由主義&共産主義から互譲互助へ

 自民党か共産党かとの選択肢みたいな言い方が、年末の総選挙で言われた。どうも二者は反対の方向と見られがちである。でもよく考えてみると、基本的な発想は一緒ではないだろうかと私は思う。新自由主義の立場の人は、上手く稼いだ人が稼いだだけお金を貰うべきだと主張する。共産主義の考え方の人は大企業や高額所得者が儲けるのではなくて、みんなに配るべきであると主張する。結局のところ誰がパイをとるかであって、パイの奪い合いの論理ではないか。結果として、共産主義的な政権が出来たとしても、誰がパイをとるかの問題となるので、特定の人だけが富を簒奪する結果になる。パイの奪い合いの論理を主張する限り、政権をとる前までいくら良い主張をしても、上手くいかないのは他の国の社会主義政権をみても明らかであろう。パイの奪い合いの論理ではない論理を考える必要がある。
 日本には「働く」との考えがある。働くとは「人のために動く」「傍を楽にする」との和語がある。お金や物を得るのなら「稼ぐ」となる。したがって、「働く」は金銭や物の授受と必ずしもリンクしていないのである。働いた結果、金銭がもらえることもあるし、金銭に結びつかないこともある。でも日本人は仕事をするなら誇りある仕事(=人のためになる仕事)をしたいと思うのである。私も子どもの職場に勤務していたが、子どものためにいろいろなことを考えたり、活動するのは労賃とはリンクしていなかった。つまり、日本人の働くの中には基本的に互譲互助の考え方が強くあるのである。
 自分だけが分け前をたくさんとらなければならないと主張する企業も、お金の分しか仕事をしない職員しかいない企業も、投資した投資家が投資分だけ回収しようとする企業も、日本では上手くいかないのではないだろうかと私は思う。パイの奪い合い、分け前の奪い合いの論理に終始していると、見えるものも見えなくなると私は考える。
 全ての政党が分け前の奪い合いを主張するのではなくて、互譲互助で助け合って、日本を大切にする考え方になってほしいと思う。日本のような自然災害の多い国の基本はやはり助け合いではなかろうか。このことを強く主張する政党が大きくなってほしいと思う。 

    2014年に考えたこと6 バリアーフリーをやめてユニバーサルデザインへ

 バリアーフリーもパイの奪い合いの論理とあまり変わらないのではないかと私は思います。視覚障がい者・聴覚障がい者・身体障がい者にとって動きやすいことのみを主張するのはある意味では既得権争いにもなることがあります。バリアーフリーではなくてユニバーサルデザインに考え方を変えていけば、みんなの利益になるから、障がい者も健常者(こういういい方が良いかに疑問があります。あえていえば、人はみんな障がい者かな)便利になると思います。
 2014年3月29日に平島公園のトイレが新しくなりました。レディーズトイレに便器2・メンズトイレに小便器2・大便器1が作られただけでなく、ファミリートイレとして洋式便器1が設置されました・今までのトイレから比べると倍の広さで倍の便器の数となりました。ファミリートイレは多目的トイレであり、障がい者用トイレではありません。乳幼児とお母さんお父さん・高齢者・障がい者誰もが使うことが出来ます。また、段差がないので、車いすでの利用も出来ます。こういう考え方が必要だと私は思います。
 私は平成25年5月25日にオープンしたこども創造センターの創設のための企画委員等に平成21年度から4年間関わっていました。一貫して主張したことは、内履きや外履きを使わない空間を作ることでした。外履きでの出入りとなりますと、乳幼児と小学生や中高校生が共存できません。それぞれのスペースを作る必要があります。外履きを使わなければ、内履き持参はあまり考えられないので、裸足で中に入る空間となります。これは実はユニバーサルデザイン的であることになります。裸足ならば、比較的幼児と小中学高校生が共存できることになり、同時に大人やお年寄りも使えることになります。本来的に日本は内履きや外履きを家屋内では使わないユニバーサルデザイン的な構造であったと私は思います。また建物内のドアも日本風の引き戸にすることをお願いして実現しました。引き戸になれば、乳幼児などが押戸に押されて怪我をすることも少なくなります。車いす等の出入りも楽になります。(車いすについては、室内用の車いすを用意するとかして、外と内を区別するとか、入り口できちんと消毒するとかが必要と思います。また、裸足の空間なら、車いすから降りて動くことも可能です。私は養護学校勤務時代がありましたが、学校内をきれいにしてあったので、体育の時などは車いすを降りて動き回る子どももいました。)
 同様に建物だけではなくて、公園なども乳幼児から小学生・中学生・高校生・大人・お年寄りのみんなが使いやすいものにすれば、同時にそれは障がい者にとっても便利なものになります。公園内の段差を出来るだけなくし、危険個所をきちんとしておくこと、街灯等を設置すること、犬の糞やゴミや空き缶をないようにきれいにしておくことは、乳幼児にも他の人にも必要なユニバーサル的な考え方です。

     2014年に考えたこと7 自然との共生

 欧米的な思考では自然は克服やコントロールの対象であることが多いようです。今の時代はそのしっぺ返しにあっているのではないかと私には感じられます。日本人にとって、自然は神と同様に崇拝の対象でもあるのです。自然を支配やコントロールしようと思うよりも、自然の恵みを利用して(ワイズユースして)自然を大切にする気持ちがあれば、自然破壊につながる森林破壊や大気汚染・水質汚染となる活動は慎むことになるでしょう。企業も企業利益を求める以前の問題として、自然愛護・環境破壊をしないことが企業理念として確立されるべきだと私は思います。
 地球は回転しているので、隣の公園が除草剤で汚染されれば、近隣は汚い空気がやってきます。緑がなくなれば、砂も飛んでくるでしょう。近隣の公園をきれいにしていくことは、自分の家にきれいな空気が来ることでもあります。金銭だけたくさんあっても、空気が汚染されていれば、心身にとってマイナスとなります。みんなにとって安全安心なきれいな環境を作ることはバリアーフリーではなくて、ユニバーサルデザイン的な発想だと思います。また地域のみんなが公園緑化・地域緑化に取り組むことは互譲互助・隣保相愛相互扶助の気持ちにもつながります。公園・街路樹の下・道路・空き地等がきれいになれば、犯罪も減少して、防犯防災効果も高くなります。
 地球にやさしいみたいな言い方はちょっと違うのではないかと思っています。地球の歴史をみれば、人間の営みなどほんのわずかなことのようです。地球にやさしいではなくて、人にやさしい地球を維持するためにと提案したほうが素直なのではないかと思います。2億年後くらいには、大陸はぶつかり合って、また大大陸になるとか。そんなに未来のことまで考えられないから、せめて次世代まで人にやさしい地球をと私は思います。 

     2014年に考えたこと8 自治会活動

 平島一丁目自治会の年間の世帯からの収入は約160万円である。団体助成金・事務費・環境衛生費・自治会活動費の経常経費が140万円位となる。後の20万円が自治会で自由に使える費用となる。私は4年前から会長兼代表となり、渉外費・会議費・研修費などの名目で実際には飲み食いに使われていたものを節減した。その結果、もう20万円ほど自由に使えるものにした。合計40万円程度が自由に使えることになる。自治会活動をやる場合に、区役所等の補助制度がある。全額補助・8割補助・半額補助などがある。40万円は補助金を活用すれば120万円となる。つまり、飲み食いを減らせば、自治会活動は充実するのである。
 自治会長となり感じたのは、各種会議とそれに伴い懇談会(実は飲み会)が多いことであった。計算すると年に10回くらいはある。1年目は参加してみたが、自治会活動に益のあることはあまりなかった。行政も飲み会での行政説明等はしないので、飲み会と自治会運営はあまり関係なかった。2年目からはこの種の懇談会への出席をあまりしないようにした。すると会議費や渉外費の軽減となったのである。必要ない懇談会がなんであるのかなあと思ってみたが、世代間格差だと私は感じた。私の上の時代はバブルで大儲けした世代でもあった。官官接待や民間でも接待で仕事を貰うとのことが多かった。その年代がしっかりと自治会役員中枢を握っているので、公金で飲食するのは当然との考えが占めている要素もあるようだ。これでは自治会運営は上手くいかないのではないだろうか。
 自治会にもいろいろな自治会がある。新興住宅地で役員や自治会長のなり手がなく、周り順でやっている場合もある。こうした場合は継続性がないので、なかなか運営が上手くいかない。逆にずっと昔からの人が長期にやっていると、自治会の運営が独占され、形骸化してしまうこともある。やはり各種各世代の人たちが出来る範囲で出来ることをやるような組織化を考えることが必要であると思う。
 みんなが共通して使用する地域の場と環境を守る。災害や防災対策・防犯対策などを上目線ではなくて、下から築き上げていくことが必要であろう。このためには自治会役員はいろいろな世代から役員が選出されるような手法が必要とされる。また飲食を伴う夜の会議を極力減らすことが大切であると私は思う。

      2014年に考えたこと9 マスコミの常識と食い違い

 日本のマスコミはあまりにも大衆迎合主義ではないかと思うことが多々あります。本来的にマスコミの使命はある程度本質的なことの提案をすべきだと思うのですが、世論が右と言えば右、左と言えば左とぶれる傾向があるように思います。私が放送大学院を学んでいるのは少し本質的なことを学んで、現実に役立ててみたいと思っていることもあります。
 この間、放送大学のテレビをみていたら、日本の昇給や昇給は必ずしも年功型ではないというのです。システム的には能力によって人事考課や報酬が決定されるようになっているとのことです。ただそのシステムが機能しないで、能力があろうがなかろうがオートマチックに昇給昇格されるように運営されているのが問題だというのです。ですから、マスコミ風に年功序列社会から実力社会へとか成果主義になるみたいな言い方は誤解を招くと思うのです。問題は現在のシステムをきちんと運用するにはどうしたら良いかを考えることが必要であるのではと思います。
 体罰の禁止なども同じことが言えます。教員による体罰が問題となると、教員叩きを始めますが、結果的に不法行為をする子どもたちを野放しにしてしまいます。体罰やいじめなどと取沙汰しなくても明確に『傷害罪・暴行罪・侮辱罪・名誉棄損罪・器物破損罪等々』の刑法の罰則を適用するべきです。もし体罰罪やいじめ罪が必要であるなら、刑法を改正するべきです。
刑法にあるもの(内乱に関する罪・外患に関する罪・国交に関する罪・公務執行妨害罪・逃走罪・
犯人蔵匿・証拠隠滅罪・騒乱罪・放火・失火罪・出水・水利に関する罪・往来妨害罪・住居を侵す罪・秘密を侵す罪・あへん煙に関する罪・飲料水に関する罪・通貨偽造の罪・文書偽造罪・有価証券偽造罪・印章偽造罪・偽証の罪・虚偽告訴罪・わいせつ・姦淫・重婚罪・賭博・富くじに関する罪・礼拝所・墳墓関係・汚職の罪・殺人罪・傷害罪・過失傷害罪・堕胎罪・遺棄罪・逮捕・監禁罪・脅迫罪・略取・誘拐罪・名誉に対する罪・信用・業務関係罪・窃盗・強盗罪・詐欺・恐喝罪・横領罪・盗品等に関する罪・毀棄・隠匿罪)
 刑法にないことを罪のように主張するのは情緒的で幼稚ではないでしょうか。刑法もしくはきちんと取り締まる法律を考えないで情緒的にマスコミが煽るのは危険ではないでしょうか。(危険運転致死傷罪なら自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律』で〇負傷させた場合15年以下の懲役○人を死亡させた場合1年以上20年以下の懲役と決められている)
 最近ではフィンランドの教育が素晴らしいと盛んに主張され始めている。全体を見ないでよいとこどりをして、自国を批判するのが好きな知識人とマスコミが多すぎはしないだろうか?ネットで調べてみたら、フィンランドの消費税は23%(食品でも12%)、所得税も20%以上とのことだ。良い面もあればマイナス面もあるものだ。下記にフィンランドの教育事情のネットの記事があったので紹介した。これが正しいかどうかは私にはわからないが。

http://amiyazaki.net/BUSINESS_SHIFT/EducationalReform/consumption_tax_22.html

フィンランドの義務教育では、学費や給食費、教材費や文房具、5キロ以上遠方から通う場合は、通学費なども支給され、ほとんど無料で教育が受けられる。しかしそのウラには23%もの消費税や20%以上の所得税など、重い税負担がある。落ちこぼれが少ないとは言うが、実は学力がない子供は学校に入れないし義務教育でも留年させる仕組みである。学校間格差がないとは言うが、人気のある学校と人気のない学校があり、良い学校にはいるために中学卒業を1年間延期して、10年生をやる子供が3%もいるという。フィンランドの教育は素晴らしいと言うが、実はそれにはこういう種も仕掛けもあって、実は日本よりはるかに厳しい教育制度だ。あまりにも日本と違うので、一冊本を読んだくらいでは、フィンランドの教育制度の全貌はわからないのも当然か。
 少人数学級が必要との主張もちょっと眉唾ではと私は思っている。少人数学級が日本の教育風土にあっているのなら、小規模校の学力が大規模校の学力より高くなると言えるだろうか。フィンランドのように消費税が高く、教育が無料で、学校が教育のみに特化し、少数精鋭主義でやることが日本の風土にあっているだろうか。日本の現在の教育的状況や環境を考えるならば、学校における子ども同士の学び合いを保証し、切磋琢磨のプラス面を伸ばし、学力以外の人間関係の成長を促すことを考えるならば、少人数学級ではなくて、チームティチングつまり複数担任制度による多人数学級を維持することではないかと私は思っている。理屈よりも実際に31人のクラスが出来た時に、15人と16人のクラスを作った方が学力があがるか、31人に2人の教員を配置したほうが良いかを試してみることが良いのではないかと思う。3クラスなら、61人の新1年生が入学して、30人学級なら、20人・20人。21人の3クラスが出来る。40人学級なら30人・31人の2クラスで3人の職員配当となる。30人学級の最大値では3クラスは30人・30人・30人である。40人学級でもやはり30人・30人・30人である。

 日本の現在の教育制度の現状と他国の現状は違いがあるし、保護者が学校に求めているものを違いがある。こうした違いを無視して、少人数学級こそが正義である的な主張は考え直す必要があると思う。 

     2014年に考えたこと10 江戸と明治

 明治維新で江戸期が否定されたような感じがする。散切り頭になって、洋装をして、西欧化したかに見える。同時に薩長土肥による汚職もあったようで、江戸期の精神がまた取り戻されたかにも見える。それが明治の良さにつながったのではないかと司馬遼太郎さんの本を読んだりして感じる。
 子どもの発達を考えると江戸期の『三つ心六つ躾九つ言葉十二文十五理』の考えや落語に出てくる子育てなどに学ぶことが多い。江戸期は素晴らしいものをもっていたように思う。それを完全否定するのは惜しい。きちんと日本人の歴史に学ぶべきではないかと思う。
 美術の世界においても西欧の肖像画みたいなものよりも庶民をも描いた浮世絵などの方が私は素晴らしいと思う。もっと日本を取り戻して考えることが大切ではないか。
 明治
維新同様に第2次世界大戦が終了すると、戦前のものは全て否定することが良いかのような歴史観が出てくる。江戸期も良い面があると同様に明治大正昭和初期と日本のすごい面もある。これを全部否定して、外国の考えのみが優れていると考えるのはさみしいことではないだろうか。唯物史観があり、江戸は封建・明治昭和は専制君主的帝国主義みたいに決めつけてしまうことに問題があるのではなかろうか。
 私の母は助産婦をやっていた。新潟大学の産婦人科にも勤務していたが、当時の産婦人科では母乳よりもミルクを推奨していた面もあった。けれどヒ素ミルク事件があり、母乳の見直しとなった。母は『私はずっと母乳が大切とやってきた。いまさら何を』とよく話していた。同様に外国が良い外国が良いと言っているが、その外国が日本の良さから学んでいることに今になって気づくこともある。ピカソもゴッホも浮世絵から学んだとの話もある。日本の繰り返し模倣していくこともミナーシスとの考えと一緒だ。おんぶも見直されてきている。明治維新や第2次世界大戦で過去をすべて否定するような発想から、過去の良い点はしっかり学び、間違った点は修正するとの考えが良いのではないか。太平洋戦争へのプロセスを斎藤隆夫氏のように経済的観点からもきちんと批判したリベラリスト(自由主義者)も存在していた。よく共産主義も戦争に反対していたというが、日本国のためというより国際共産主義の運動のため(ある意味では革命戦争推進のため)であったことも一つの事実であるでしょう。いろいろなことを考えながら、歴史は検証する必要があります。 

     2014年に考えたこと11 原則的な自由主義(リベラリズム)の考えを

 自由(『自ずからに由る』《おのずからによる》)との言葉を作ったのは福沢諭吉さんとのことだという。英語の自由にはフリーとリベラルがある。フリーはどちらかと言えば拘束されないとか魂の自由とか住居や結婚の自由みたいな意味がある。これに対してリベラリズムは寛容なとか誰にでもわかるとか誰にでも共通な的な意味があるという。
 資本主義を自由主義経済というが、自由だからみんなが勝手にやって良いとの意味ではない。(経済的自由主義=けいざいてきじゆうしゅぎ,Economic Liberalism)また自由民主党はLDP(=Liberal Democratic  Party)である。自由主義経済は日本では織田信長の1577年代の楽市楽座に基本的には始まっているのかもしれない。楽市楽座は今までの特権階級が独占していた商業権などを自由にやれるようにしたが、同時に不正には厳しく対処したという。 つまり自由主義経済とか自由とかの概念は公共的な立場に立つと、リベラリズムの考えを根拠にすることが必要ではないかと私は思う。ある特権階級がその特権で勝手なことをやるのではなくて、みんなに法律的にも社会的にも明らかにされた中で、自由に競争が出来るとの考えである。社会主義経済が上手くいかなかったのはわかった。資本主義経済が良いとも言い切れないが、少なくともリベラリズムの自由の概念で対応していくことが必要ではないか。つまり、環境を破壊しない・他人に迷惑をかけない・公害等を生まない・人の優しい地球のためになる・他の生物と共存する・自然を大切にする・互譲互助の考えに立った企業や産業が大切にされる必要性がある。国家は少なくともきちんと企業や産業が環境破壊や水質汚染・大気汚染・公害等々がないように監視する必要がある。
 権利との言葉は明治時代に西周氏が作った言葉であると言います。Rightの訳語ですが、Rightには正義との意味があります。福沢諭吉さんは権理が良いと主張したようです。日本では利は個人の利益みたいな意味があり、権利となってために利己主義の主張になってしまう傾向もあります。本来的には正義を行うの意味が強いようです。福沢諭吉さんの主張するように権理だったら、意味がはっきりして良かったでしょう。とにかく本来的なRightは権理的な意味で個人的な権益や利益のためにある言葉ではありません。でも権利のイメージから主張したものやゴネたほうが価値みたいなものとなってきています。
 RightLiberalつまり権理と自由の意味をもう一度問い返して、原則的な自由主義の考えをベター論として現段階でとりたいと私は思います。

     2014年に考えたこと12 今を生きる

 2014年は私にとって、ちょっと多難の年であった。身体もけっこうガタが来たみたいで、通院がいくつか重なった。そんなこともあったからかもしれないが、未来志向型だけではやれないなあとの思いが出てきた。だんだん世の中が良くなってきて、素晴らしい世界になる的な発想よりも、今をしっかり生きる的な発想になってきた。東日本大震災など人間の能力ではどうにもならないことも多くあることを感じられたこの頃であるかもしれない。刹那的になるわけではなく、生きている今を精いっぱい頑張ればそれでよいのではないか。そんなに急いで仕事をやらなくても良いのではないかみたいな考え方になってきた。
 歴史の観方もマルクス主義的な唯物史観にだいぶ影響されていた。でも、それぞれの時代にそれぞれの人たちが一生懸命生きて、時代を作ってきた。過去よりも今が良いと考えることは、今が未来より悪いと同じことではないかとも考えられる。今しか私は生きられないのだから、その今を充実して生きていくのが良いのかなあと思う。
 そんな風に考えると『子どもには未来がある』的な言い方も違うのではないかと思い始めている。
 私は基本的に理解するはunderstandで下側に立ってみることが大切と実践している。この実践からわかることは、子どもは未来志向型で生きているよりも、今を真剣に生きていて、1日は大人の3日くらいに相当するくらい中身が濃い。(小学生の場合)ですから、『将来のことを考えて、嫌でもしっかり勉強しましょう』みたいな提案は今の子どもには良い提案ではない。(50年くらい前の子どもも貴重な労力だったころは、仕事をさせられるよりは学校の方が良いとの雰囲気があったが)
 子どもを相手にするということは、今を真剣にポジティブに楽しく有意義な時間を過ごすように働きかけることが必要である。今を楽しくというと今さえ楽しければ良いと思いがちである。それは違っている。刹那的・消費的・浪費的に過ごすのが楽しいとは必ずしも子どもは思っていない。(いろいろなゲーム機で孤独に遊んでいるのもそれ以外に遊びを知らないことにもよる。)

 子どもの発達段階を考慮して、子どもが今日やれることを提案するのではなくて、明日やれるかも知れないことを上手くサポートしてあげると、ポジティブで有意義で積極的な活動をするものである。これをヴィゴツキーは最近接領域と言っている。この最近接領域を感じ取ることが指導者や職員には必要である。このために職員等は日々学ぶ姿勢が必要である。学ぶ姿勢をみて、子どももまた学ぶ意欲が湧いて来る。
 子どもの未来云々ではなくて、子どもの明日出来ることを提供しながら、充実した今を過ごすことが必要であると私は思う。
 私は平島公園を緑化して、みんなが憩える空間を自ら作り出す地域にしたいと考えている。将来的には公園の下に核シェルターを作って、地域の安全安心の拠点にしたいと思っている。ツリーハウスも作りたい。その前に小学校高学年用のすべり台や水飲み場を新設し、背割り排水にふたをしたい。またユリオプスディジー・白い宿根ガザニア・マツバギク・ツワブキなどを増やしたいなどと夢はたくさんある。しかし、問題は毎日の空き缶拾い・ゴミ拾い・草取り・トイレの見回りなどの今が一番大切である。未来未来ばかり言って、未来が上手くいかないのは、政治や行政の責任などとがなり立てるだけでは問題は解決しない。明日に向けて、今日のゴミを拾うことが大切だ。ゴミを拾っていると手伝ってくれる小学生も幼児もお母さんや地域の人たちも多くなってきた。今の積み重ねこそが大切ではないか。

  備考 広辞苑より
 けん【権】
#はかりのおもり。また、はかり。「権度・権量」
#はかりごと。正道でない便宜のてだて。「権道・権謀・権術」
#支配する力。物事を処置する威力。「生殺与奪の―」「権威・実権」
#法・定めによって付与された力、資格。「権利・人権・選挙権」
#高慢であること。見高けんだか。傲岸ごうがん。誹風柳多留10「たださへも―な娘に金を付け」

 こと‐わり【理】
(物事の理非を分かち定める意から。→断り)
#道理。条理。万葉集5「世間よのなかはかくぞ―」。平家物語1「盛者必衰の―をあらはす」
#格式・礼儀にかなっていること。欽明紀「新羅―無し」
#理由。わけ。源氏物語須磨「その―をあらはにえ承り給はねば」
#当然のこと。もっともなこと。源氏物語桐壺「人の御心を尽し給ふも、げに―と見えたり」
#(副詞的に用いて) もちろん。無論。枕草子262「わが得たらむは―、人の許なるさへ憎くこそあれ」

 □2014年私の活動 □2014年折り紙活動  □2014年カプラ活動 △2014年環境美化他
◇カプラ活動の基本  □カプラは楽し  ◇カプラのかまくら   □2014年私の考えたこと

 

 

 


HOME   トピックス TOPへ戻る