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■2003年 5月詳細トップ

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  5月 4日  いつの間にか5月
 平成15年度が始まったと思ったら、あっという間に5月になってしまいました。今年度から新潟福祉医療専門学校の児童福祉の課程に保育士と児童厚生員を養成する課程ができました。これからの児童館を担う人たちの養成ということで私も毎週水曜日に授業に出かけています。そのためnなにかと気ぜわしく、山へ遊びに行くことも少なくなり、残念です。けれど児童厚生員の仲間が増えることは良いことで、お手伝いは続けるつもりです。

 平島公園の草取り活動も順調になってきました。毎月1回の草取りが2回になり、背の高い草はほとんどなくなりました。バスケットゴールの設置も喜ばれ毎日多くの子どもたちがバスケット遊びをしています。平島公園では、異年齢・異世代が一緒に遊ぶことが特徴で、バスケットも中学生と小学生が一緒に遊んでいます。とてもよい光景です。

             

 バスケットゴールを置いたら地面の草がすっかりなくなってしまいました。すると小さい子ども達が土を掘り始めます。どうもこれは本能のようです。無意識で枯れ枝で土の部分を掘って穴にするのです。たぶん人類は暇になると土に穴を掘り、昆虫の幼虫などを食べていたのでしょう。ですから本能的にものだと思います。
 そこで町内でいらなくなったカーペットを敷き、金属のピンでしっかり留めました。でもまだカーペットの数が足りません。いらなくなったカーペーットは平島公園クラブへご寄付いただければと思います。
 5月 4日    5月3日のこと
 5月3日には山菜採り仲間と下田の山奥吉ヶ平に山菜採りに遊びにいってきました。吉ヶ平は昭和55年に廃村となり、現在誰も住んでいません。でこぼこの曲がりくねった道を走る続けて着くことができます。昔は八十里越えといって、会津に向かう主要幹線であったことを思い出される気配は余りありません。長岡藩の河合継之助もこの道を通ったのです。

 越後長岡藩家老河井継之助 (かわい・つぐのすけ) は、文政十年(1827)に生まれた。名は秋義、蒼龍窟と号した。嘉永五年 (1852) 江戸へ上り、斎藤拙堂、佐久間象山らの教えを受けた。戊辰戦争で、西軍と越後各地で戦ったが長岡城は落城。継之助は銃弾を受け、部下千数百人とともに八十里越えから会津に逃れた。

 
とのことがネットで書いてあった。

 さて山はちょうど良い山菜の季節でした。コゴミを採り、近所や仲間に分けてあげることができました。
         
 
 5月12日  5月10日はテンプラ会
 毎年恒例のテンプラ会がありました。40名以上のボランティアと参加者総勢180名くらいで賑わいました。美味しいテンプラの材料もたくさん寄付されました。


 ボランティアの足立さんが撮ってくれたテンプラ会の様子です。
 詳しい様子は写真館にアップデートしてあります。
  ■テンプラ会
 5月23日  草取りをがんばりました
 子どもが安心して遊べる環境を作ることは同時に地域のみんなが楽しくより良い環境になることに通じます。ですから児童センターの活動・子ども会の活動・自治会の活動・ボランティアの活動と一致します。子どもの遊び場環境作りを提案することで地域のみんなの輪と和を広げることが大切と思います。
 5月18日には平島公園の草取り・5月22日には有明児童センターの草取りを行いました。草のにおいがしてとても気持ちが良い日でした。
          
 5月28日には専門学校の土手ののり面を学生と一緒に草取りをし、コスモスを植えて、秋にはきれいなコスモスを咲かそうと考えています。遊び場環境作りをテーマにするとボランティア活動はどこにでも転がっていてしかもみんなに喜ばれます。
          草取り頑張ったよ
 5月25日  今年最後の山菜採り
 今年の最後の山菜採りに行きました。いつもの倍以上を歩きました。サンショウウオの住処を超え、アカコゴミ平から崖を登りウド崖を回り,コバイケイソウ平を経由し、迷い沢を降り、高橋ヤブから大池を回って降りてきました。山道というかヤブの中を2時間以上歩いて疲れ果てて帰ってきました。帰りのラーメンショップが美味しかったのですが、家に帰ると足が疲れ果てていました。

 この下の麓を登ってきたのです・

 雪を追いかけて崖を登ってやっと残雪近くに来ました。

真ん中はミヤマイラクサです。周りの白い花ははワサビです。