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開設者の内科・小児科診療所です。禁煙外来、在宅診療も行っています。
Planes of Fameの零戦(1978年)
Planes of Fameの零戦(1995年)
航空自衛隊浜松基地の零戦
河口湖自動車博物館(2001年):五二型(現在は靖国神社:遊就館にて公開中)
河口湖自動車博物館(2002年):二一型
白浜の零戦
河口湖自動車博物館(2003年):二一型:2回目の公開
河口湖自動車博物館(2004年):完成した二一型と復元前の二一型
河口湖自動車博物館(2005年):二一型と復元中の五二型、復元前の二一型主翼と胴体
河口湖自動車博物館(2006年):二一型と復元中の五二型
河口湖自動車博物館(2007年):ほぼ完成した五二型と二一型
河口湖自動車博物館(2008年):エンジンを載せた五二型と新塗装の二一型、二一型主翼骨格
河口湖自動車博物館(2009年):二一型、五二型と二一型胴体骨格
河口湖自動車博物館(2010年):五二型と二一型、一式陸攻胴体部復元
国立科学博物館の零戦
靖国神社遊就館の零戦
船の科学館の大和
「男たちの大和」撮影用大和
「男たちの大和」ロケセット
1997年 Fニッポン富士スピードウェイ
1999年 東京モーターショー
2000年 Fニッポン富士スピードウェイ
2001年CARTツインリンク茂木
2003年 東京モーターショー
2004年 F1鈴鹿サーキット
2007年 F1富士スピードウェイ
キャラクター系
航空機
艦船
陸上
車両

 東京メトロポリタンテレビジョン(UHF14ch)で、平成9年8月9日(土)夜9:00〜9:30に、私の撮った零戦のビデオを使用した番組が放送されました。
 番組の概要:開戦から終戦にいたるまで、海軍のみならず、日本軍の栄光と衰退の歴史を代表する零戦。戦時中の零戦の開発に際し、関連した日本の航空技術と設計思想を検証しています。そしてその技術の戦後の日本への影響を描いたものです。
 このページは番組を制作したワック株式会社のご好意により制作しました。但し、当時のニュースフィルムや、ワック以外に著作権が存在するものについては掲載できませんので省略しています。またこの番組の出版化予定もあり、番組そのものは再現できませんので、番組の紹介と私自身の解説(赤い文字がそうです)という形をとりました。なお、ゲストの役職などは放映当時のものですので、ご了承下さい。
番組タイトル”width=300><H2><font color=#FF0000>MXTV <font size=7 color=#000FF>ザ・サイエンス</font><p> 東京メトロポリタンテレビジョン(UHF14ch)にて、毎月第2、4土曜日夜9時から放送</H2></font>
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<TABLE BORDER>
<TD><font size=6>名機零戦 現代技術への遺言</font></TD>
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<a href=宙返り開始宙返り開始宙返から背面飛行宙返りから背面飛行へ
 番組の最初に流れる零戦の飛行シーン。このうち数分間が私のビデオから採用されたものです。
ゲスト


三野正洋さん (日本大学生産工学部専任講師 三野正洋さん。専攻は空気力学。軍事技術の現代的評価に独特の視点がある。近著に”日本軍兵器の比較研究”がある)「近世から現代に於いて、有色人種の作った最も優れた技術品の一つ。他に欧米先進国がショックをうけたものは少ない(当時欧米列強は同じ白人のドイツはともかく有色人種の日本人の実力を甘くみていたのだろう。実際、後で述べるように基礎的な技術は全くかなわなかったのは事実)
日下公人さん (ソフト化経済センター理事長 日下公人さん。経済評論家。幅広い評論活動で知られ、太平洋戦争にも関心を寄せる。近著に”人間はなぜ戦争をするのか”がある)「当時日本が持っていた技術水準が前提で、栄エンジンの1000馬力で作った。1000馬力エンジン戦闘機で最優秀(実際、基本的な技術レベルは如何ともし難かった。戦争後期に登場する誉エンジンは当時の欧米のエンジンを凌駕するほどのエンジンであったが、あくまで技術者が丹念に仕上げた試作品で発揮された力であった。大量生産時に動員された非熟練工が試作品より劣る原材料を使用することになり、一気に性能が落ちてしまった。このような基礎工業力を理解せずに、表面的な強さだけで戦争に及んだのは為政者として無謀であったと言わざるをえない)
ウォルフさん (航空宇宙技術研究所空力性能部 主任研究官  ステファン・ウォルフさん。元NASA研究員。大戦時の軍用機に精通している)「零戦は大戦中の名戦闘機の一つ。歴史に残る名機であり、偉大な戦闘機で、世界中がそう認識していた(この点だけでは人々の心に残る名機であったわけではないのはもちろんである)
高仲顕さん (中部産業連盟 副会長  高仲顕さん。経営コンサルタント。戦時中、零戦の整備、戦闘機などの設計に従事。近著に”零戦のマネジメント”がある)「日本人は剣道的で一辺にやる。アメリカはフェンシング的で何度もついて最後にやる。背景にそういう思想がある。高速で初速速く、重武装。長距離でぐるぐる回る。これは相反するもの(実際に強力と言われた20mm機関砲だが、命中率が悪く、坂井三郎氏などは欧米の13mm機銃を束ねた方法を推奨している)


番組に登場した零戦


三菱の工場で 三菱の零戦 三菱の零戦 三菱の工場で
 三菱重工名古屋航空宇宙システム研究所 小牧南工場 資料室の零戦(さすが零戦生みの親の会社だけあって、その復元は評価が高いそうである)
博物館の零戦
 国立科学博物館の零戦(ラバウルの工場で破損した数機の零戦を継ぎ合わせて作ったもの)


開発


三野正洋さん:「零戦は英米戦闘機と損失率1対2と強かった」。史上最強と言われた零戦、しかし海軍の要求は当時の戦闘機の常識を超えたもので、軽快な運動性能と攻撃力という相反する条件を両立させたものであった。
零戦の遺産堀越二郎著、零戦の遺産より:「私はまだ残されている航空機設計上の神話に新しい光を当ててみること。日本で使える技術のありったけを投入してみること」。実際にテスト飛行での試作機の空中分解など、いくども困難に突き当たった。
高仲顕さん:「マネジメントでの成功の要因は、若手の堀越の起用。中島のエンジンをつけたこと」。
開発チームは数々の徹底的な軽量化を行った。
三野正洋さん:「強さの理由は3つある。アメリカが日本の航空技術と技量の情報を持っていなかった。パイロットがよく訓練され、ドッグファイトがとく当たった。アメリカは大きなエンジン、重い機体でヒット・アンド・ランが得意なのにしなかった」。(そして何と言っても既に日本は中国戦線で実戦経験を積んだ優秀なパイロットが充実していたのである。後に述べるように、それに頼って後身の育成が不十分であったことが大戦後半の苦戦に繋がっていった)
しかし無傷の零戦を手に入れたアメリカは零戦の性能を徹底的に追究。その結果、ドッグファイトでなく、ヒット・アンド・アウェイで対抗するなどの戦術をあみ出した。そしてアメリカが零戦に対抗する新型戦闘機グラマンF6Fヘルキャットを投入した。(時期的にヘルキャットは零戦を手に入れる前に開発されており、零戦の分析によって対抗機として最もふさわしい性能だった、というのが真相らしい)


零戦の欠点


三野正洋さんはF6Fと比べてみたときに旋回性能以外は劣っていた事。F6Fが大量生産されて、数の上でも劣勢になった事。零戦は徹底的な軽量化をはかったため、改良できるだけの余地がなかった事などが問題点として挙げている。
ウォルフさんはエンジの技術開発が発展しなかった事を指摘。
日下公人さんは、ソフトで言うと、日本は昭和12年から戦争していて、鍛えられた優秀なパイロットが多すぎた。従って戦争後半にベテランパイロットが減ってきたときに、にわか作りのパイロットには合っていなかったのではないか、と。 (結局当時の技術では達成できない性能を、歴戦のパイロットの腕で補ってもらおうと、機体に無理をさせた結果としての高性能だった故に、大戦後期の未熟なパイロットには適さなかったのでしょう。それが特攻という悲劇にいたった原因の一つなのでしょう)


後継機


なぜ日本海軍は新型戦闘機を開発しなかった(できなかった)のか。
高仲顕さん:エンジンの能力が劣っていたこと。現場からの要求にふりまわされたこと。
日下公人さん:工作機械が悪く、高度な技術で優秀なエンジンを作れない。
三野正洋さん:例えば零戦の尾翼のラインなど、F6Fと比べて曲線が多く、製作に上利。アルミの厚さも違う。 (結局技術的な底力の差であった)


戦後

 日本は経済的・技術的に多大な進化を遂げ、技術大国としての地位を確立した。
日下公人さん:戦後は高精度の機械で高精度の製品の製作のため、必死で工作機械を作り、遂には現在アメリカで使っている工作機械はみんな日本製になった。 高仲顕さん:一番零戦の時に感銘をうけるのは、七試艦戦で失敗した堀越氏をあえて九試に起用したという、普通の会社では考えられない事、とマネジメントの重要性を指摘。、トップのリーダーシップがないと日本はよくならないのでは。
ウォルフさん:今日の技術開発に於ては当時に比べ、個人よりチームワークが尊重される。また一つの開発にかなりの年数を要する傾向がある。よって、個人が新しいプロジェクトの核になる場合が少ない。
三野正洋さん:技術の最先端に次どんなものが来るか見極めるのは非常に難しい。零戦は明治維新から続いてきた技術の1個だけ突出した山。次の山がもうない。零戦が今だに語り継がれるのはその突出した山だったからではないか。
(零戦は当時の日本の技術では考えられない高性能であった。しかしそれゆえに犠牲となった部分が後に欠点として大きなツケがまわってきた訳である。戦後、数々の発展を遂げ、戦時中には考えられない技術的発展を遂げた日本ではあるが、公害・原発事故・薬害など、大戦後期の日本の姿と似ているように思うのは考え過ぎであろうか?)
 最後に番組のオリジナルの締めくくりの言葉で。「零戦は国家の命運を担って登場した、言わば日本の技術の結晶である。そして零戦は課せられた期待と役割に答え、世界の頂点に立った。今後また国家の命運を左右する科学技術が求められた時、それをどのように製品として具体化するのか、その成果をどのように評価するのか、そしてどう継承していくのか、ま近に迫った21世紀。日本の科学技術の行く末を見定めるように、零戦は今、永遠の眠りについている」